【書評】『天才 富永仲基 独創の町人学者』/釈徹宗・著/新潮新書/800円+税
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター所長)
富永仲基(なかもと)は、一八世紀の前半を生きた。まことに独創的な、大阪の町人学者である。その学問的ないとなみに、この本はせまろうとする。また、かみくだいて説明するよう、つとめている。仏教には、さまざまな経典がある。仲基はそれらを読みくらべ、先後関係をさぐりだした。
ある経典はべつの某経典からこれこれの部分をとりいれ、どこそこをふくらませている。こちらの経典はあちらの経典からしいれた文句を、こんなふうに増幅させていた。そんな分析をつうじ、こう喝破したのである。どの経典も、それぞれの都合で釈迦像をねじまげている。いわゆる大乗仏教は、もう仏教じゃあない、と。江戸時代の仏教界は、この説に強くあらがった。こいつは、仏教のことが、まったくわかっていない。仏教を冒涜している……。
この本を書いた釈徹宗は、浄土真宗本願寺派の僧侶である。寺の住職にもなっている。そんな身でありながら仲基の学問を、高く評価する。「現代の眼から見れば、富永仲基の論考は仏教研究にとって実に有意義なものです」、と。仲基の傑出ぶりは、多くの人に論じられてきた。だが、現役のお坊さんまで絶賛していることに、私は感銘をうけている。
キリスト教圏で教典の批判的な分析がはじまったのは、よほど時代が下る。今でも教会関係者は、そういう研究をいやがろう。イスラム圏では、まだたやすくとりかかれまい。なのに、日本ではお坊さんまで、ほめていた。
仲基の仕事は、人びとの知見を左右する条件にも、およんでいる。時代によって、風土によって、それはどうかわるか。学者のあつまりである学閥も、物の考え方をゆがめることがある。そのからくりも見すえていた。いわゆる知識社会学の、日本的な開祖でもある。
著者も、そちらの側面をクローズ・アップさせている。仏教批判だけでなく、人文科学の先達としてとらえる度合いが強い。そこは、やはりお坊さんの書きぶりかなと、にんまりさせられた。
※週刊ポスト2020年11月6・13日号