昭和を代表する作曲家・筒美京平さんが2020年10月7日、誤嚥性肺炎でなくなった。80才だった。3000曲近くを制作し、作曲したシングル総売上枚数は7560万枚で、作曲家別ランキングでは歴代1位である。そんな偉大な筒美さんについて、郷ひろみや山口百恵を手掛けた音楽プロデューサー・酒井政利さんが寄稿した。
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昭和歌謡に洋楽のスパイスを取り込み、昭和POPSとして最前線で牽引してきた作曲家だった。まさにJ-POPの元祖であり、世代を超えて愛される昭和歌謡の大黒柱でもある。
高度経済成長が右肩上がりの時代、昭和が変貌しようとしていた。歌謡界も同様で、CBS・ソニーが設立され、新しい音楽を模索できるのではないかと移籍した私は、フランク・シナトラの売り出しのキャッチコピーがアイドル路線の“女学生の友”と知り、刺激を受け、かわいさだけでなく芯のある、意思を持った素材を探し始めた。
そんなときに出会ったのが16才の南沙織。アイドル路線でデビューさせたいというと、まだ“アイドル”という言葉はたまに専門誌で見かける程度だったため、社内では反対意見も多かった。それまでの歌謡界は古賀政男氏の哀感メロディーに代表される演歌、古関裕而氏の行進曲や応援歌のような明るい楽曲、海外の音楽に精通してテイストを盛り込んだ服部良一氏の歌謡曲が主流。そこに幼稚園の頃からピアノを学び、大学時代はジャズに傾倒し、卒業後はレコード会社で洋楽ディレクターを務めていた筒美氏が新しい音楽を送り込み始めた。作詞家・橋本淳氏にすすめられ、作曲家・すぎやまこういち氏に師事した筒美氏が生んだ、いしだあゆみの『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、それまでの歌謡界にはない音楽性で、たちまち国民を魅了した。
その筒美氏に南沙織のデビュー曲を依頼。新しい音楽を作りたい旨を伝え、できたのが『17才』。その後も郷ひろみの『よろしく哀愁』、ジュディ・オングの『魅せられて』をはじめ、ヒット戦線を賑わせた数多くの作品でご一緒させていただいたが、氏との仕事は触発合戦だった。そのキャッチボールが実に心地よかった。
また、意思を持たず、かわいいだけのアイドルをよしとせず、音楽性を重視した。歌手への歌唱指導では丁寧でわかりやすく教える優しさと、やる気を見せない歌手は見限るという厳しさを併せ持っていた。ジュディ・オングも、通常の1.5倍もの時間をかけて氏が歌唱指導しながらレコーディングをしたことで大人の歌手へと変貌した。
筒美京平という天才的な才能は“異”の人だ。異国の異文化の音楽を取り入れる異能さは異彩を放ち、異質だが誰もが受け入れる。
『また逢う日まで』を口ずさみながら満足そうな顔をして旅立ったのではないか。
【プロフィール】
酒井政利(さかい・まさとし)/1935年、和歌山県生まれ。立教大学卒業後、松竹、日本コロムビアを経てCBS・ソニーに入社。プロデューサーとして南沙織、郷ひろみ、山口百恵、松田聖子など多くのスターを生み出す。『愛と死をみつめて』(1964年)、『魅せられて』(1979年)で日本レコード大賞を受賞するほか、受賞作多数。現在は、酒井プロデュースオフィス代表取締役として音楽プロデュース業のかたわら、次世代のプロデューサーの育成に励んでいる。
※女性セブン2020年11月19日号