映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづった週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』。今回は、俳優の黒沢年雄が、映画俳優を志して、各社のニューフェイスを受験したころについて語った言葉をお届けする。
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黒沢年雄は一九四四年、横浜に生まれる。少年時代はプロ野球選手を目指したが十六歳で挫折、同時期に母親を亡くした。
「おふくろが死んで、それからだ。ちょっとぐれて、町の不良になった。もう学校には行ったり行かなかったり。それでも犯罪だけは起こさなかったけど。
それで思ったんだ。俺はもしかしたら将来やくざになる。でも、やくざは嫌だ──と。
もっと大きな夢を持たなきゃ──と思っていた時に映画俳優になろうとなった。映画俳優は野球選手と同じように夢を与えることができる。石原裕次郎さんは俺に夢を与えてくれた。寂しい時、悲しい時、お腹がすいてる時でも、映画を見ている時はみんな忘れさせてくれる。
俺、映画俳優になるからそういう学校に入れてくれと親父に言ったら、一言、『金なんてねえよ』と。それで、いろんな仕事を経験して、それを俳優の役に立てようと思ったんだ。やれるものは、全部やったんです。夜はキャバレーのボーイ。十一時半頃までやったら朝四時までバーテン。ダンプの運転免許も持っている。二年半で三十くらいの仕事をやったんだよ。一挙に三つ四つ掛け持ちでね。だから、俺の演技は全て実体験から来ている。
車のセールスマンもやったんだけど、サラリーマン役はできなかったな。唯一できない。俺はキャラクターが強いから。
のちに森繁久彌さんにも『お前はサラリーマンできないな』とよくバカにされましたよ」