年をとると友人がひとり、またひとりとこの世を去っていく。残された者たちは、葬式で別れの挨拶をするたびに悲しさだけが残る。だから──。吉田拓郎(74才)が旧友と固い約束を交わしたその夜、何があったのか。知られざる「男たちの秘話」。
《僕が広島で過ごした高校、大学時代こそが その後50年以上も続けて音楽をやって行く事になる 言わば「すべての始まり」であり「僕を生み出した季節」である。》
吉田拓郎(74才)が11月3日、中国地方の文化の向上に大きく貢献した中国地方ゆかりの個人、団体に贈られる「第77回中国文化賞」を受賞した。
その際、吉田は青春を過ごした広島に思いを馳せるエッセーを、冒頭の書き出しで地元紙に寄稿した。その中で吉田は、メジャーデビュー前に結成していたバンド「ザ・ダウンタウンズ」のメンバーとある約束をしたことを明かした。
《昨年の秋、広島で何十年ぶりに4人で再会し夕食を共にした 「今後お互いの葬式には行かない」という事を確認した。「今夜が最後の夜になるかもね」と話した。》
青春時代を共に過ごした仲間たちへの最後の別れをなぜ拒否するのか──そこには「僕を生み出した季節」への吉田の特別な思いがあった。
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1946年、鹿児島・大口市(現在の伊佐市)に生まれた吉田は、小児喘息で小学校を半分も休む体の弱い男子だった。
10才で広島に引っ越すと、運命の歯車が回り出す。広島皆実高校時代、訪れた広島商業高校の文化祭で、同年代の高校生がエレキバンドを組み、当時流行していたベンチャーズを弾きこなすのを見て衝撃を受けた。
冒頭のエッセーで当時の心境を吉田はこう綴る。
《僕は自分の心に「火がついた」のを覚えている。「これだ!」と確信したのだ 「僕もこれをやろう!」》
吉田は、広島商科大学(現、広島修道大学)に進学し、1965年、バンド「ザ・バチェラーズ」を結成。翌年、吉田は仲間とともに上京して芸能プロダクションにバンドを売り込むが、うまくいかず解散へ。
その翌年、結成したのが「ザ・ダウンタウンズ」だ。