バルセロナ五輪・男子柔道71kg級に出場した古賀稔彦は、現地での後輩・吉田秀彦との練習中に大ケガを負う。しかし、古賀は歩くのもままならない状態で試合に臨み、順当に勝ち進んでいく。決勝では得意技の背負い投げこそ出せなかったが、前日に金メダリストとなった後輩の吉田秀彦に続き、日本柔道に2つ目の金メダルをもたらしたのだ。大ケガを負いながら、金メダリストとなった当時の舞台裏を、古賀自身が振り返る。
* * *
人間というのはいついかなる時も「甘さ」「弱さ」「狡さ」が出てしまうもの。だからこそどんな状況、状態であっても自分が目指すものに対して戦う準備をしなくてはならない──それを痛感した出来事が、2度目のオリンピックとなる92年バルセロナ五輪だったかもしれません。
当時私は24歳。年齢的にも選手としてピークを迎えており、日本選手団の主将に任命されていました。日本柔道界において金メダルは絶対です。心身ともに絶好調のまま、現地入りした翌日、思わぬアクシデントが起こりました。
後輩の吉田秀彦との乱取りの稽古中、畳ではなくマットだったため、背負い投げの瞬間に左足が滑って「ボキッ」と音が鳴り、そのままうずくまりました。診断の結果、左膝内側側副靱帯損傷の重傷、全治2か月。周りの関係者たちは皆落胆し、日本のマスコミはこぞって「出場辞退」「絶体絶命」との見出しで大きく報道しました。
ただそんな周囲の心配をよそに、私自身はそれほどショックはありませんでした。結局試合までの11日間まったく練習できないまま、痛み止めを6本打ってぶっつけ本番で臨みましたが、むしろ普段よりもやる気がみなぎっていました。4年前のソウル五輪での教訓があったからです。
アクシデントが集中力を研ぎ澄ます
優勝候補だった私は周囲のプレッシャー等もあってか3回戦で敗退。マスコミからバッシングの嵐に遭い、人に会ったら何か言われるという恐怖心から、外部と接触を断つため大学の施設に篭ってしまいました。