1991年、第73回全国高等学校選手権大会の決勝は、前年準優勝の沖縄水産が沖縄県勢初の優勝を目指したが、大阪桐蔭に敗れた。閉会式では、沖縄水産の大野倫投手が、右肘が曲がったまま行進する様子が全国中継され過酷な日程などに苦情が殺到、翌年から投手の肩や肘の関節検査を導入するきっかけとなった。その後、プロ入りし、現役引退後は故郷の沖縄で子供たちへの野球指導にたずさわる大野が、当時のことを振り返る。
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小学校から野球を始め、ずっとプロ野球選手を夢見ていました。高校で当時、県内最強と言われていた沖縄水産に進学したのも、プロ野球への登竜門である甲子園に行くためです。ただ、いざ高校に入ってみたら、プロに行きたいなんて考える余裕がないほど、想像を絶する過酷な世界が待ち受けていました。
時代的に全国の強豪校はどこもそんな風潮だったと思いますが、当時の沖水野球部での毎日は、まさに軍隊のようでした。寮生活において下級生の頃は深夜まで先輩のマッサージや洗濯、寮の食事は先輩に根こそぎ食われ、水産高校で男子ばかりなので恋愛もできない。「寝られない」「食えない」「恋できない」といった状態が入学以来続きました。
平穏な日々が訪れるのは、高校2年の夏の大会が終わって自分たちの代になってから。それまでは冗談抜きで一日一日を生き抜くのが精一杯で、身体のケアなど一切考えたことはありませんでした。
本能的に普通のケガではないと感じた
そんな状態で迎えた高校3年の5月。熊本遠征でのダブルヘッダーで2試合とも先発完投し、MAX144キロが出るなど絶好調でした。当時は140キロが剛速球投手の証であり、自己新の144キロが出たことで気分が良かったのを覚えています。意気揚々と沖縄に戻り、練習前のキャッチボールを始めた時に、悲劇が起きました。
中間距離でボールを投げた瞬間、突然「グギッ!」と右肘の骨が軋み、折れたような音が身体中に響き渡ったのです。「やばい」と思ったと同時に激痛が走り、この瞬間、目の前が真っ暗というか、遠征で調子が良かっただけに天国から地獄に落とされたようでした。これは普通のケガではないと本能的に思いました。そこからです。右肘が二度と伸びなくなったのは……。