【書評】『コロナ禍日記』/植本一子、円城塔、王谷晶、大和田俊之、香山哲、木下美絵、楠本まき、栗原裕一郎、田中誠一、谷崎由依、辻本力、中岡祐介、ニコ・ニコルソン、西村彩、速水健朗、福永信、マヒトゥ・ザ・ピーポー 著/タバブックス/2000円+税
【評者】大塚英志(まんが原作者)
コロナの騒動の中、会ったことさえない幾人かの人の動向が気になった。「おたく」と猫を飼っている以外の共通点しかない人がSNSで日を追うごとに鬱っぽくなっていき、馴染みの古本屋店主が休業を余儀なくされて「物欲がなくなった」とつぶやきを発する。押し潰されそうなという比喩でなく、本当に押し潰されていく様を見ていた。
しかし、同じコロナ禍の日記のようなものでもこの本に登場する人たちの日々の記録は随分違う。何よりコロナ下の自分の立ち位置に正確だ。例えば作家の福永信は自分の視野の狭さについて「世界というところまで頭がいかない」が少なくとも「国という区分」で思考すべきでないと冷静だ。
音楽やものを描く、家事まで含めて、日々の営みを古いことばでいえばブリコラージュ的手仕事として意味付け、同時に、地域なりに根差し、それが「国という区分」ではないグローバルなものに自然に接合する人たちもいる。いくつもの確かな「生活」が並ぶ。「お肉券」あたりには、うんざりはするが、安倍政権をぼくのように日々、面罵する人はおらず、自粛に対してポリティカルに反応する「一部の」日本国内世論にも全く乗らず、総じて社会システムと自分との関係の距離を適切にとり、使用もする。
きっと、コロナ禍の「日常」や「生活」をこのように理性的に営む人々のことばが集まる「世界」があるのだろう。そこは、自粛という抑圧に耐えかね、混乱し、政治に憤り、暮らしが追い詰められていくぼくのweb上の「知人」たちとの「世界」とは違う「世界」なのだろうと、その「分断」を想う。
そして、コロナ禍をこんなふうにていねいな生活の記録として、後世のために書くという態度は、まるで、太宰治「十二月八日」の主婦みたいで、「こういう時」に書かれる「日記」が内在する政治性に猜疑心にまみれた僕は何だかなあ、とも思う。非常時の「日記」は意外と歴史資料にならないんだよと柳田國男が言っていたことを思い出しつつ。
※週刊ポスト2020年12月18日号