【書評】『韓非子【第一冊】』/韓非・著 金谷治・訳注/岩波文庫/970円+税
【評者】辻田真佐憲氏(近現代史研究者)
二〇二〇年は、ファクトやエビデンスの限界がいよいよ明らかになった年だった。アメリカ大統領選挙では陰謀論が吹き荒び、日本では相変わらず歴史修正主義が収まるところを知らない。コロナ禍をめぐっても、世界中で根拠のない風説が飛び交った。
もちろん、メディアなどでファクトチェックは盛んに行われている。にもかかわらず、それが十分な効果を発揮しない。それは、説得という問題にわれわれがあまりに無頓着だったからではないか。
人間には寿命があり、能力にも時間にも限りがある。日々忙しいなかで、ただデータを積み上げて「どうだ、読め!」と迫るだけでは、物事は動かない。情報をわかりやすく加工し、物語化し、ひとびとに伝える努力がここで重要になってくるのである。
中国戦国時代の思想家・韓非は、その古典的名著『韓非子』の「説難篇」でつとにそのことを指摘している。「凡そ説の難きは、説く所の心を知りて、吾が説を以てこれに当つべきに在り」(岩波文庫版、第一冊)。相手を説得するためには、相手の考えを読み取った上で、こちらの説明を臨機応変に変えていかなければならない。自分には知識も弁舌の才もあると驕り高ぶり、理解できない相手を侮るようではいけない。
この説得という問題をとりわけ軽視してきたのが、昨今の専門家だった。なかには、テレビ番組や作家、評論家のアラ探しに汲々とし、SNSで「いいね」数を稼ぐことで悦に入っているといわざるをえないものもいる。
日本学術会議の任命拒否問題で、市民社会がアカデミズムに概して冷淡だったのも、ここが関係している気がしてならない。尊重すべき専門知があるとして、それを世の中にどのように広げていくのか。そこまで考え、権威主義に陥らず、象牙の塔にこもらず、あえて政治とも関わり、危険を厭わず行動できるものこそ、本当の知識人であろう。二〇年代は、ファクトやエビデンスの“その先”まで考えなければならない。
※週刊ポスト2021年1月1・8日号