作家の甘糟りり子氏が、「ハラスメント社会」について考察するシリーズ。今回は、「奥さん」、「お母さん」、「おばさん」…といった呼びかけや「嫁」呼称問題について語る。
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古い日本家屋で暮らしているので、修繕を含めた業者さんをよくお願いする。先日は、役所から派遣された三人のシニアがうちにやって来た。初めてお会いする方々だ。もちろん対応するのは私で、名前を名乗って挨拶をしたのだが、いきなりこういわれた。
「じゃあ奥さん、現場に案内してくれるかな?」
「もちろんです。でも、あのう、私、奥さんではないんですが」
「あ、そ」
現場を見て、どうやって対処するかを話し合う。
「そいでね、奥さん。ここはまずやってみてからでないと」
その人の言葉が終わり、私が話す番になった時、私はもう一度やんわりとこの家の奥さんではないと伝え、「甘糟です」といってから発言をした。それでも、三人はずーっと私のことを「奥さん」と呼び続けた。
七十を超えているであろうシニアの方々に、それは立派なハラスメントだと指摘したところで事態が変わりそうでもないし、お互い多少の気まずさが残るだろう。仕方がないとあきらめた。けれど、私には結婚歴はないし、奥さんと呼ばれる筋合いはない。
こうやってあきらめてしまうから、家にいる女の人は「奥さん」か「お母さん」で一括りにされてきたのだ。などと書くと、めんどうくさいと思う人がいるかもしれない。シニアの方たちと話している最中、よく見知った配達の方が別件でうちに来て、私が奥さんと呼ばれている場面に居合わせ、一瞬クスッとなってしまい、ハッとしてからすまなさそうに頭を下げていった。彼は何にも悪くないのに。あー、めんどくさ。そういいたいのはこっちのほうだ。
少し前のこと、夜遅く、自宅近くの江ノ電の線路を越えたところで警官に止められた。一時停止無視だった。線路の前でブレーキを踏んで完全に速度ゼロにしなければならないのに、私は減速しただけで通ってしまった。江ノ電が走っていない時間帯とはいえ、ルールを破った私が悪い。そこは反省します。
警官は警笛を吹きながら車を停止させ、こちらにやってきた。
「お母さん、今、ちゃんとブレーキ踏みました?」
「すみませんでした。で、お母さんって私のことですか? 私に子供はおりませんが」
警官の正確な年齢はわからないが、私の伝えたいことはなんとなくわかったらしかった。年齢で判断しようとしている私も差別をしている。これはよくない。
「ああ、それはすみませんでしたね。ええっと…」
警官が言葉に詰まったので、鞄から免許証を出して渡しながら、呼ばれる前につけ加えた。
「ちなみに、私、奥さんでもありませんので」
日本語って、こういう時にとりあえず使える代名詞はないのである。マダムとかムッシュー、もしくはレディとかメン、みたいに。おばさん、もしくは、おじさん、と呼びかけたら、どうしてもそこに侮蔑的な意味合いが生まれてしまう。私たちはおばさんやおじさんという言葉をドライには発せられないし、受け取れない。
しかし、名前のわからない他人に呼びかける時、無理やり性別を含めなくてもよいのではないだろうか。奥さん、お母さん、お父さんではなくて、ただ普通に「あなた」といえば済む。
SNSで、人気のお笑いコンビが嫁の呼称問題について、いちいちそんなことをいわれると「何を話していいのかわからなくなる」と嘆いたという記事を目にした。伝聞の形をとっているので確かではないが、そういう気持ちはわかる。私もこうして文章を書いたり物語を作ったりする際、自分の意に沿わない受け止められ方をして揚げ足を取られないだろうかと怖くなることが多々ある。人々の意識が進んで、発信側の意思ではなく受け止め側が不快に思わないかどうかが優先されるようなった。大げさだけれど、「文化より人権」なのだ。
件のお笑いコンビは、嫁だけでなく、奥さん、家内の呼称もダメと聞き、「もうそういう文句をいってくるやつはゴミだ」とまでいったとか。だとしたら、私もゴミである。無意識でも、というか、無意識に女性のパートナーのことを嫁と呼ぶ習慣は捨てていかなければならない。無意識なのは余計にたちが悪い。ゴミといわれても、主張を止める気はない。
言葉など時代の空気で変わっていくもの、嫁という単語をいちいち家に女と書く女性蔑視と受け取るのは時代遅れという意見もあるそうだ。しかし、やっと夫婦別姓が論じられる時代になったのだから、悪しき過去のニュアンスは積極的に捨てていくべきだと私は思う。「嫁」呼びはダサい。