2020年2月に亡くなった野村克也さんは1990年、かつて万年Bクラスの弱小球団と揶揄されていたヤクルトスワローズの監督に就任。「ID野球」を掲げ、Aクラス常連チームへと生まれ変わらせ、1998年までに4回のリーグ優勝、うち3回は日本一となった。そんな、野村ヤクルトにおいて、俊足強肩の一番打者として大きく貢献した飯田哲也氏が、野村監督からの忘れられない言葉について語った。
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「フライを打つな。ゴロを打て。上げたら使わんからな」と厳しく指導されてきました。つまり内野安打でも、エラーでもいいから塁に出ろということなんです。塁に出れば「お前が塁上にいるだけで相手は気になる。塁上で揺さぶってやれ」と言われました。
監督からヒントをもらい、自分なりに解釈して実践する──その繰り返しでした。解釈を間違うと「なぜこのタイミングで走ったんだ」と叱られる。自分の考えを言うと、「そうじゃない、考えろ」と。細かい指示をされた記憶はなく、すべて自分の頭で考えさせられる。
外野にコンバートされたときも、理由は聞かせてくれなかった。未だに答えをもらっていないですからね。野村監督が亡くなった今となっては、僕の長所の足を活かした守備位置ということなんだろうと想像するだけです。僕への指導に共通していたのは「自分の持ち味を活かした野球をやりなさい」ということでしたから。
褒められたことはほとんどなかったですね。怒られなければ合格。一番怒られていたのが捕手の古田(敦也)さんで、僕は2番目でした。それでも野村監督は、僕の持ち味を誰より理解してくれていたんです。
楽天でも監督の下でプレーをしましたが、選手がホームランを打ってもベンチで腕を組んで座っているヤクルト時代とはかなり変わっていた。言っていることは変わらないのですが、ホームランをベンチ前まで出てきてハイタッチして喜んでいて、野球好きのおじいちゃんになっていました(笑い)。
【プロフィール】
飯田哲也(いいだ・てつや)/1968年生まれ。俊足巧打のセンターとしてヤクルトを牽引。2005年から現役引退まで、楽天ゴールデンイーグルスで再び野村監督のもとで活躍した。1992年の盗塁王。
※週刊ポスト2021年1月1・8日号