大相撲における年寄株とはそもそも、江戸時代中期に興行を取り仕切っていた元力士たちによる株仲間(勧進元)がルーツとされ、貞享元年(1684年)に幕府は雷権太夫以下14人の襲名を認めた。その後、興行が軌道に乗って株は増え、昭和初期には現在の「105」となった。
この年寄株は、角界における数々のトラブルの元凶となってきた。
年寄株がなければ、いくら現役時代は名力士で成績を残しても日本相撲協会を去るしかない。それゆえ、所有者にとっては強大な既得権益となる。
「高額売買が何度も問題になった。1996年には元横綱・初代若乃花と元大関・貴ノ花の兄弟間での『二子山』の譲渡にあたりタニマチから贈与された3億円について、東京国税局が申告漏れを指摘。株の譲渡で億単位のカネが動く実態が明らかになった」(ベテラン記者)
1999年には『週刊ポスト』スクープがきっかけで、陸奥親方(元大関・霧島)が年寄株取得のために後援会から提供された資金など、5年間で2億2000万円の申告漏れが明るみに出たこともある。
「年寄株の数は105と限られるので、相撲人気で需要が増せば値段は高騰する。1990年代の若貴ブームの頃は3億円の値がつき、それでも需要が上回っていた」(同前)
高騰の結果、年寄株を所有せず、本来の持ち主から賃借する「借株」も横行。返還を求められるたびに借り換えを繰り返し、一体“ナニ親方”なのか関係者でさえ混乱するケースもあった。
1983年に引退した二子山部屋の元小結・若獅子は横綱・隆の里が持っていた「鳴戸」を襲名したが、3年後に隆の里が引退し、借株を返すことに。
するとそこから、鳴戸→峰崎→荒汐→小野川→千賀ノ浦→湊川→花籠→竹縄→芝田山→藤島→佐ノ山と、実に11の年寄株を渡り歩き、最後まで株を買えず1996年に廃業した。