コロナ禍で苦戦する全国の映画館を応援しようと、4人の映画人がオンライン・トークショーを行っている。『ミニシアター押しかけトーク隊「勝手にしゃべりやがれ」』と題したイベントでは、賛同した劇場で上映された作品について、荒井晴彦(脚本家、映画監督)、森達也(映画監督、作家)、白石和彌(映画監督)、井上淳一(脚本家、映画監督)の4氏がオンラインで縦横無尽に語る。その模様は、上映直後の映画館の観客が観覧できるほか、YouTubeでも公開されているが、ここではそれを活字化してお届けします。4作品めとなる今回は、井上淳一監督『誰がために憲法はある』。前編、後編の2回に分けて掲載します。今回はその前編です。(文中一部敬称略)
この映画には三つの大きな欠点があります
井上:まず最初に、ぼくがどうして『誰がために憲法はある』という映画を作ったのかという話をしたいと思います。安倍政権になってから7年半の間、特定秘密保護法案に始まり安保法制、共謀罪と、どれだけ反対の声があろうが、大した熟議もされずに、数の論理だけで強行採決され続けました。もうやられ放題で、なのに支持率も下がらない。でも、映画って作って公開するのに時間がかかるので、何もできずにいたんです。しかし、憲法だけは2020年、今年に改憲するといってはばからなかった。それならば、映画を作って、反対の意志を示せるかもしれない。それに、もしかしたら現行憲法最後の憲法記念日になったかもしれない去年の5月3日に一本の憲法の映画も公開されていないなんてあり得ない。そう思って、憲法の映画をつくろうと思いました。ただ、ぼくは本籍脚本家だと思っているので最初は劇映画で憲法をテーマに作れないかと思っていました。
今、スマホから自民党日本国憲法改正草案にアクセスしてもらうと、改憲草案が出てきますが、これがめちゃめちゃで、今の自民党がやろうとしている改憲の三本柱は「国民主権の縮小」「基本的人権の制限」「戦争放棄の放棄」です。で、最初はこの改憲草案が成立してしまった十年後の世界をやろうと思ったんですが、そんなことをやると、ジョージ・オーウェルの『1984年』みたいな作品にしかならないんで、それでは説得力がないだろうと思いました。全部が全部成立する訳でもないし。そんな時に『あたらしい憲法草案のはなし』(太郎次郎社エディタス)という本が出ました。これは1947年、日本国憲法の施行の年に『あたらしい憲法のはなし』という中学生向けの副読本が出たんですが、そのパロディとして、この自民党憲法草案をわかりやすく解説した本だったんです。それで、ああ、これを自民党の政治家に扮した5、6人の役者が演説していく形にすれば自民党の改憲草案の出鱈目さを広く知らしめることにもなるだろうと思ったんです。
ただ、これは本だったらあとがきでパロディですと書けるけど、映画のおけるあとがきは何だろうと一生懸命探している時に、『憲法くん』(作・松元ヒロ、絵・武田美穂・講談社)という絵本と出会ったんです。「憲法くん」というのは松元ヒロさんが日本国憲法を擬人化して喋るという、20数年間舞台でやっているネタなんですけど、それを読んで、そうだ、これを自民党改憲草案の後にくっつければいいんじゃないか。そうすれば自民党の出鱈目さを撃つことになるんじゃないかと思ってやることにしました。
やるなら松元ヒロさんよりもご自身が戦争を体験された方に演じてもらったほうがよいだろうということでいろいろ探した結果、渡辺美佐子さんにやってもらうことになりました。撮影当時、85歳だった美佐子さんが台詞を全部覚えることになって、初めて自民党の改憲草案をシナリオにしてみたんですけど、やはり軽い嘘の言葉って所詮どんなうまい役者が演じても嘘にしかならなくて「憲法くん」にたどりつくまでの一時間もたないんじゃないかという当たり前のことに初めて気づいたんです。で、キャスティングもしていたし、原作も押さえていたんですけど、一度、それを全部捨てて、まず「憲法くん」だけを撮りました。
そして、あと一時間、なにをやろうかと考えていた時に、「憲法くん」の撮影の取材に来ていたBS朝日の記者に呼び出されて、「井上さん、渡辺さんの初恋の話と原爆朗読劇が来年(2019年)終わるって知っていました? 私、局に企画を出したんだけど、通らなかったんで、代わりに井上さん、撮ったら?」って言われたんです。恥ずかしながら、僕、全く知らなくて。実は、渡辺美佐子さんは2年前に亡くなったぼくの母親とまったく同じ1932年10月23日が誕生日で、それを知って勝手に運命みたいなものを感じました。それでそれをドキュメンタリーとして撮ることにしました。果たして「憲法くん」とそのドキュメンタリー部分が一本の映画になるのかどうかわからなかったんですが、とりあえずこういう形になりました。
だから『誰がために憲法はある』というタイトルで見に来て、なんだ、やっていることは憲法じゃなくて朗読劇のドキュメンタリーじゃないかって思われた方もいらっしゃるかもしれません。だけど、「憲法くん」の語る「私というのは、戦争が終わったあと、こんなに恐ろしくて悲しいことは、二度とあってはならないという、という思いから生まれた、理想だったのではありませんか」という言葉の、「こんなに恐ろしくて悲しいこと」が、あのドキュメンタリー部分でより具体になったことで、憲法の理想が皆さんにより届いていたらいいなと思っています。で、通常の舞台挨拶だと、この映画には三つの大きな欠点がありますと続くんですけど、その欠点は荒井さんが試写を見た直後から言っているので、どうぞ。
荒井:なんだっけ、その欠点って。
井上:ぼくが言っている欠点とは一つは戦争の被害だけやって加害の問題に触れてないこと。もう一つは第9条の一番の矛盾である沖縄のことに言及していないこと。そしてぼくは昔から改憲派ですけど、それは第一章の天皇制を削除すること。そのことに全く触れていない。この三つですね。
荒井:まず、敵が変えようとしている一番ターゲットは9条なわけじゃない。じゃあなんで9条に絞らなかったのかということだよね。渡辺美佐子さんたちの「夏の会」の原爆朗読会がメインになっちゃったわけで、結果、サンドイッチにするんだったら、9条でサンドイッチしないとつながっていない感じがしたな。今日、この映画を見るのは二度目だけど。去年、最初見たときにはゆるいなあと思った。そして、何だ、このゆるさはと思ったのは、井上はこういうものをやる時はその意見に賛成している人しか結局、見に来ない。そのハードルというか、そうじゃない意見の人たちを引っ張って来るにはどうするかと言っていたけど、結局ハードルの問題じゃないんじゃないかな。やっぱりそれは結局見にこないでしょ。関心は持たないというか。井上がこの映画をもっていろんなところを回って、お客さんと話して、見た人が右から左に大転回してというようなことはありえないだろう。
井上:それはよく聞かれるんですけど、たとえば質疑応答で「9条について責められたりしませんか」って言うんですが、ひとりもいないんですよね。ということは荒井さんの言う通りで、どれだけ自分の中で間口を広げたと思っても、やっぱりこの映画を見にいらっしゃるのは9条を守らなきゃねという人だけなんです。だからそのことをいつも悩みながら、上映しているんですけどね。
荒井:だから第9条で言えば、ほんとうに軍隊を持たないで攻められたらどうするんだと必ず素朴に言う人がいるよね。で、そんな攻めてくる国はないよっていう風には言い切れないんだけど、俺もどっかでどこも攻めて来ないよと思っている。昔、初代全学連委員長の武井昭夫さんとそのことについて話すことがあって、「武井さん、軍隊を持たないでもし攻めてきたらどうするかということを、どういうふうに考えてるんですか」って聞いたんだよね。すると「信念として人を殺さないことだ」と。俺が「ということは殺されることですか」って言ったら「そう」というふうに言うんだね。それを聞いて俺はすごい決意だなと思った。そういうことで9条なんだと。殺されてもいいんだ。とにかく人を殺さないことのほうが大事なんだと。
だからそれはずっと言っている加害と被害の問題になってくるんだけどね。加害はしないと。被害はされたことだけで、戦争は加害、殺されるだけじゃなくて、人を殺すわけじゃない。そっちへなかなか考えがいかないよね。そうするとこの『誰がために憲法はある』はなにを言いたかったんだろうと思うんだけどね。渡辺美佐子さんのドキュメンタリーとしては別にWOWOWのノンフィクションでやっていて、幼い時の初恋の人が広島で爆死したという話は全く同じコンセプトでやっているしさ。そうすると井上の映画は何だったんだろうと思った。
井上:森さんにはメールに書いたんですけど、これは『大地を受け継ぐ』(2015)に次ぐぼくの2本目のドキュメンタリーなんですが、その『大地~』の時もこれも、宣伝部が「森さんにコメントを」と言ったんだけど、「絶対に褒めるわけないから、やめよう」と(笑)。森さんとは沖縄シアタードーナツのリモートトークで『誰がために~』の話をちょっとしましたけど、どうですか。
「あ、この手法ならできるんじゃないかと思った」
森:作品論の前にこれは井上淳一論に必然的になるんじゃないかなと思っていて、けっこう長くなりますけど。井上淳一というのはきわめて特異なポジションにいる、稀有な監督だと思います。で、まず、『誰がために憲法はある』という映画は決して得な構成ではないんです。企画自体が憲法というものをテーマにする。あるいは9条、原爆、そうした三つがそろって新劇の女優たちがいる。新劇といえば築地小劇場だったりと言ってみれば戦後左翼の一番リベラルの総本山みたいな時期もあったわけじゃないですか。当然、所属している俳優さんたちもみなそういう洗礼を受けているわけで、その女優さんたちを使い、そのシンボリックな存在の渡辺美佐子さんをメインにして彼女の初恋の人が広島で被爆したということで原爆につなげる。決してドキュメンタリーとして得じゃないんです。非常に予定調和的で、でもそれはたぶん井上さんはわかっているんですね。
それは『大地を受け継ぐ』でもそうですね。これは福島の第一原発事故により被曝の被害を受けた農家のお父さんが自殺しちゃうんですよね。その息子さんを描いたドキュメンタリーなんだけど。これも非常に実直というレベルで。ところがこれは井上さんの謎の部分なんだけど、井上さんが脚本を書いた『アジアの純真』(2011年、片嶋一貴監督)ではあえてこのテーマにラジカルに向き合っている。『アジアの純真』ってとんでもないです、これ。最近、『ニューズウィーク日本版』に作品評を書きました。これは見逃していた自分を恥じるという感じで書いたんですけど、突き抜け方がすごいよね。
白石:森監督が言いたいこと、すごくよくわかります(笑)。
森:その突き抜けている井上さんがドキュメンタリーになると非常にオーソドックスを自ら意識して、あえてそちらに自分は行くよという感じでやっているのが興味深くてそのあたりを今日は聞いてみたいなと思ったんです。
この映画、今日見たバージョンで、観客の皆さんも途中、あれっと思った人がいるんじゃないかな。女優さんたちと学生さんたちがシンポジウムでみんなでQ&Aをやるシーンがありますよね。で、学生たちが全然映らない。ぼくも『A』(1998)という映画の中で当時、オウム真理教の荒木浩広報副部長が一橋大学のゼミに呼ばれたシーンを撮ったんだけど、学生たちとQ&Aをやったんですね。学生からは解脱したとか修行したいという気持ちは煩悩じゃないのかとか麻原彰晃は奥さん以外にも女がいっぱいいて子供がいっぱいいてしかも好きなものを食ってて、どこが最終解脱者なんだとか、そういう質問が出るのだけど、荒木さんの答えを全部カットして学生の質問だけにしたんです。
そういう編集にした理由の一つは、荒木さんの答えが宗教的に誠実過ぎてつまらなかったということがあるんだけど、もう一つは、答える荒木さんにこの映画の主体はないんだと宣言したかったんです。
オウムを撮った映画ではあるけれど、僕が被写体としてフォーカスしているのは、オウムではなくてそれを取り巻く社会の側なんです。オウムは触媒でしかない。そう思いながら映画を撮ったけれど、おそらく世間はオウムの映画という見方しかしないだろうし、ならばそうではないということを編集の意図として示したい、ってむらむらと思ったんです。
だから荒木さんの答えはあえて削って、学生たちの質問だけを残して編集したんですね。それがよかったかどうかはわからないけど、観てくれたなら、その意図は何となく伝わったんじゃないかと思うんです。この何となく、が映画は大事で、被写体はオウムだけどテーマは日本社会です、って言葉にしちゃえばそれは簡単だけど、でも映画ではなくなってしまう。
だから井上さんも、そういう作為があっての編集なのだろうかと勝手に考えていたら、昨日、名古屋のミニシアター、シネマスコーレの舞台挨拶でこれについてしゃべっている映像をYOUTUBEで見ちゃったんで、ああ、そういう理由かと思ったんです。それは井上さんから語ってもらったほうがいいけど、ただ、結果としてあれはすごいシーンになったんです。ドキュメンタリーって自分では意図していないのにモンタージュとして違う意図を提示してしまうことが多々あるし、そういうある意味でのアヴァンギャルドな面白さがある。だけど、井上さんはそこを極力避けて、なるべく実直にやっているのに、結果としてああいうハプニングがあったから、あんなシーンができて、それが逆にいいシーンになっちゃったのが面白いなと思って見ました。
井上:ほんとうに、『アジアの純真』にしろ、『戦争と一人の女』(2013年、井上淳一監督)は荒井さんがシナリオを書いているんで、そのラジカルさは荒井さんのラジカルさでもあるんですけど、なんでドキュメンタリーになると、とはよく言われます。もちろんぼくはドキュメンタリーを見ていましたけど、素養とかなにか積み重ねてきたものがあるわけじゃないので、自分がドキュメンタリーを撮るなんて思ったこともなかったんです。ただ、荒井さんに誘われてワン・ビンの『鳳鳴(フォンミン)―中国の記憶』(2007)という3時間近くある映画を見たんです。
荒井:つまり人がしゃべっているのを撮ればいけると(笑)。
井上:なんで荒井さん、先に言うの!(笑)。これは70半ばの女性がマンションの一室のトイレから出てきてソファに座ったら、ほぼ3時間、自分の半生を喋り続ける映画なんです。ただ、その半生が反右派闘争と文化大革命で粛清されて、収容所に入れられて、旦那さんともそこで死別してという中国の暗い近・現代史を語っている映画なんです。
で、あ、この手法ならできるんじゃないかと思ったんです。ぼくは有能な脚本家でも監督でもないんで仕事がなくて、ある時期、ワン・ビンの手法で野中広務を撮ろうと思った時期があったんです。ものすごく真剣に超絶に強い伝手を使ってコンタクトを取ったんですけど、どうしても駄目で、と思っている時に『大地を受け継ぐ』の樽川(和也)さんという農家の人に出会ったんです。で、ワン・ビンのスタイルでいけるじゃないかと。だたワン・ビンみたいにずーっと撮り続ける自信はないから東京から誰か連れて行こうと。最初に僕が樽川さんの話を聞いた時にやっぱり聞いている人たちがいて、その人たちがわんわん泣いて、樽川さんもだんだん感情が高まっていくのを見ていたいんで、誰かギャラリーがいるかなという、ほんとうにそれだけだったんです。それで学生たちを連れていった。
今回に関しては、さっき言ったようにほぼ出会いがしらのようにスタートした話なので、オーソドックスと言われると非常に、ああ、そうなのかと自分でも自覚するところがあります。で、そのシンポジウムの中学生問題ですけど、もちろん撮っていて、最初の完成バージョンにはありました。これ、BS朝日の記者に「朗読会を撮りなよ」と言われたのが、4日後から稽古で、撮影した広島公演が2週間後という時だったんです。そこから渡辺美佐子さん以外の女優さんにコンタクトをとって稽古場には3日通ったんですが、そんなに信頼関係を築けないまま撮影しているんです。ぼくは、稽古場で「憲法くん」と一緒にやりますと説明して、広島公演も撮らせてくださいと話してはいました。広島公演直前には女優さんたちに手紙も出しました。しかし、広島の中学校は「ANT-Hiroshima」というNGO団体を通してブッキングされていたんですが、高田敏江さんから学校にも撮影許可を出してくれと言われて、中学校には「憲法くん」のこと書かずに、朗読劇のドキュメンタリーですと書いて出したんです。余計なことは書かない方がいいと。
そうしたらこの完成作品を見た高田さんが「中学校は朗読劇だからオーケイしたんであって、こんなふうに『憲法くん』に挟まれて『誰がために憲法はある』というタイトルがついちゃったら駄目じゃないかしら」と言われたんです。小さな忖度が大きくなるのは世の常で、NGO団体を通して、その忖度が中学の校長の耳に届いた時には完全に大きくなっていて、中学生を映すことはまかりならんと。ぼくは映画を見てもらったら納得してもらえると思ったんですけど、そんなことはなくて、「なぜ原爆はよくて、憲法は駄目なんだと。憲法になったとたんに政治になるのか」という話もして、誠実に交渉したつもりですが、受け入れてもらえませんでした。
結果、何が起こったか。その朗読劇って公演する学校から5人だけ生徒が女優さんたちと一緒に舞台に上がって10分ぐらい朗読するんです。さらにその中からその子たちを含めた50人ぐらいの交流会をやるんですけど、その朗読劇に参加した女の子が「わたしは広島に生まれてよかったと思います。広島に生まれたから平和教育もあるし、こういう貴重な体験もさせてもらえます。ただ、世の中には平和の大切さについて十分にわかっていらっしゃらない方もまだ多くいらっしゃると思うので、わたしたちがちゃんと伝えていかなければいけないと思います」と言うんですよ。もちろんそれはステレオタイプの意見かもしれないけど、その子の言葉が、女優さんが原爆を語り継ぐということと非常にシンクロした部分ではあったんです。
だから残したかったんですけど、どうしても駄目で、最後は美佐子さんに呼びだされて「井上さん、わたしもこういう忖度とかで表現が殺されるのは気持ち悪いけど、このままいくと今年、広島で5公演が決まっているけど、全部、中止せざるを得なくなる。そうするとわれわれはこのまま赤字で終わらなくてはいけなくなる。それだけはほかの女優さんたちに申し訳なくて」と言われて仕方なく切ったというのが表のストーリーです。だけど、今回はじめて正直に言いますが、このまま美佐子さんがこの映画の宣伝にかかわらなくなったら、その打撃の方が大きいんじゃないかという計算がぼくのなかで働いて、結局カットしました。白石さんには、そこが好きで非常によかったと言ってもらったシーンだったんです。
ドキュメンタリーでは意図しない偶然がとても頻繁に起こる
森:でも井上さん、さっきも言ったけど、ぼくはそれであのシーンはより異様な緊迫度が増したなと思いました。もちろんカットする前のシーンを見ていないんだけど。白石さんは中学生たちが質問するシーンも見ているのですか。
白石:気持ちがストレートに出ていて、井上さんがやろうとしているテーマがまっすぐということもあるんですけど、それとすごくシンクロしていたんです。これを言いたいんだということを代弁しているという感はすごくあったんですね。
森:中学生の顔はなくなったけれど、あのシーンを見ながら、つまり女優さんたちの答えを聞きながら、欠落したものを想像するじゃないですか。ドラマもドキュメンタリーも同じだけど、特にドキュメンタリーの場合は現実を撮っているという前提のもとに作品を観るから、欠落に対して想像力が喚起される
そもそも現実ぜんぶは当然ながら撮れないし、どこを見る人に想起してもらうのか、させるのかというところでいろんな技があるわけでしょ。それは力技もあるけど、けっこう裏技もあるし、そういう意味ではあそこのシーンは、いるはずなのに映らない中学生たちがどんな顔をして質問しているのかなとか、涙ぐんで答えを聞いているんじゃないかなとか、そこまで想像して見れるからすごく面白くて。
19世紀にミロス島で発見された「ミロのヴィーナス」の両腕がもしも欠損していなかったら、歴史的な価値はともかくとしても、芸術としての価値はずいぶん変わっているだろうと思うんです。逆に言えば、両腕がないからこそ「ミロのヴィーナス」は、芸術として大きな価値を持った。だからドキュメンタリーはドラマに比べれば、明らかに現実に支配される領域が大きい、これを言い換えれば、意図しない偶然がとても頻繁に起きる。だからあのシーンは、結果としてとっても好きなシーンなんですけどね。…こうやってぼくらが喋ったあとに、荒井さんが何を言うか怖いけど。
荒井:森さんにそう言われると、俺は両方を見ているけど、今日、見たバージョンの方がスッキリしているよね。
白石:スッキリしているという言い方もなんだかなあ(笑)。
井上:なんか感じ悪いなあ(笑)。いや、そこを切る時に、だけどそうは言いながらも最終的な判断は音楽をやってもらったPANTAさんが試写に来て、カット前のバージョンを見て、実はこういう問題が起こっているんですって言った時に、迷わず「いや、井上君、そっちのほうが強くなるよ」と言ってくれたんですよ。
森:このバージョンのほうが?
井上:はい、切ったほうが強くなると言ってくれて。それで決断できたというのはやっぱりあるんです。
荒井:それと平和教育を受けている広島の子たちってステレオタイプだなって思うよ。2、3日前かな、テレビを見ていたら広島と長崎の子がハワイの高校生とリモートで原爆について喋っているんだけど、ハワイの高校生にパール・ハーバーをどう思うかって突っ込まれて、広島、長崎の子たちが知らなかったって言う。平和教育ってなんなんだろうなと思うよ。それは当然、ハワイの子たちは突っ込むよね。パールハーバーがあったんだよって言う。それを知らないで原爆、原爆って言っているのはね。ちょっと衝撃的だったね。だからそんな子たちはカットしてもオーケイだと今日思ったわけですよ。
白石:そんな子たちはっていうことはないですよ。
(続く)
◇構成/高崎俊夫
◆劇場情報 このトークライブが行われたのは「御成座」です(於・2020年8月14日)。〒017-0044 秋田県大館市御成町1丁目11−22(http://onariza.oodate.or.jp/)
【プロフィール】
●荒井晴彦/1947年、東京都出身。季刊誌『映画芸術』編集・発行人。若松プロの助監督を経て、1977年『新宿乱れ街 いくまで待って』で脚本家デビュー。以降、『赫い髪の女』(1979・神代辰巳監督)、『キャバレー日記』(1982・根岸吉太郎監督)など日活ロマンポルノの名作の脚本を一筆。以降、日本を代表する脚本家として活躍。『Wの悲劇』(1984・澤井信一郎監督)、『リボルバー』(1988・藤田敏八監督)、『ヴァイブレータ』(2003・廣木隆一監督)、『大鹿村騒動記』(2011・阪本順治監督)、『共喰い』(2013・青山真治監督)の5作品でキネマ旬報脚本賞受賞。他の脚本担当作品として『嗚呼!おんなたち猥歌』(1981・神代辰巳監督)、『遠雷』(1981・根岸吉太郎監督)、『探偵物語』(1983・根岸吉太郎監督)など多数。また監督・脚本作品として『身も心も』(1997)、『この国の空』(2015)、『火口のふたり』(2019・キネマ旬報ベストテン・日本映画第1位)がある。
●森達也/1956年、広島県出身。立教大学在学中に映画サークルに所属し、テレビ番組制作会社を経てフリーに。地下鉄サリン事件と他のオウム信者たちを描いた『A』(1998)は、ベルリン国際映画祭など多数の海外映画祭でも上映され世界的に大きな話題となった。続く『A2』(2001)で山形国際ドキュメンタリー映画祭特別賞・市民賞を受賞。は東日本大震災後の被災地で撮影された『311』(2011)を綿井健陽、松林要樹、安岡卓治と共同監督。2016年にはゴーストライター騒動をテーマとする映画『Fake』を発表した。最新作は『新聞記者』(2019・キネマ旬報ベストテン・文化映画第1位)。
●白石和彌/1974年、北海道出身。中村幻児監督主催の映像塾に参加。以降、若松孝二監督に師事し、『明日なき街角』(1997)、『完全なる飼育 赤い殺意』(2004)、『17歳の風景 少年は何を見たのか』(2005)などの若松作品で助監督を務める。2010年『ロストパラダイス・イン・トーキョー』で長編デビュー。2013年、ノンフィクションベストセラーを原作とした映画『凶悪』が、第38回報知映画賞監督賞、第37回日本アカデミー賞優秀監督賞・脚本賞などを受賞。その他の主な監督作品に、『日本で一番悪い奴ら』(2016)、『牝猫たち』(2017)、『彼女がその名を知らない鳥たち』(2017)、『サニー/32』(2018)、『孤狼の血』(2018)、『止められるか、俺たちを』(2018)、『麻雀放浪記2020』(2019)、『凪待ち』(2019)など。
●井上淳一/1965年、愛知県出身。大学入学と同時に若松孝二監督に師事し、若松プロ作品に助監督として参加。1990年、『パンツの穴・ムケそでムケないイチゴたち』で監督デビュー。その後、荒井晴彦氏に師事。脚本家として『くノ一忍法帖・柳生外伝』(1998・小沢仁志監督)『アジアの純真』(2011・片嶋一貴監督)『あいときぼうのまち』(2014・菅乃廣監督)などの脚本を執筆。『戦争と一人の女』(2013)で監督再デビュー。慶州国際映画祭、トリノ国際映画祭ほか、数々の海外映画祭に招待される。ドキュメンタリー『大地を受け継ぐ』(2016)を監督後、白石和彌監督の『止められるか、俺たちを』で脚本を執筆。昨年、監督作『誰がために憲法はある』を発表。