コロナ禍で苦境の旅館業。観光客が減ってしまっている中、「おもてなし」のプロたちには、生き残るための知恵と秘策があるという。長年温泉旅館の取材を続け近著に『女将は見た 温泉旅館の表と裏』がある温泉エッセイストの山崎まゆみさんに知られざる旅館の物語を教えてもらった。
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──コロナ禍で感染拡大している中、旅館はどのようにこの苦境を凌いでいるのでしょうか?
山崎:旅館経営においてもダメージは深刻です。私がお付き合いのある旅館もいくつか閉館してしまいました。先日も、鹿児島県霧島国際ホテルから閉館のお知らせが文書で届きました。坂本龍馬が日本初の新婚旅行に出かけた霧島温泉で人気があった宿です。10種類のお風呂が楽しめたので、残念でなりません。
──コロナ禍によるお客さんの減少が経営を直撃したわけですね。
山崎:客足の減少だけがダメージの理由ではありません。とある秘湯の人気宿が休館に入ったのですが、これはお客さんが来ないという営業上の問題ではなく、「秘湯には人がいないだろう」と若いお客さんがたくさん押し寄せたからだそうです。この宿には高齢者の家族もいて、病院も近くにない環境ですから、もしコロナ感染者が出たら対応できなくなってしまうと判断したようです。
──苦渋の選択ですね。上野の鷗外荘が2020年5月末で閉館したというニュースもありました。
山崎:鷗外荘の場合は、経営難で追い詰められての閉館というわけではなく、築130年以上の森鷗外の旧邸を守るためという前向きな理由によるものでした。この閉館をきっかけに、クラウドファンディングが成功し、森鷗外の旧邸の屋根を修復する算段がついたそうです。
このようにコロナ禍でも、修復のきっかけを得て、再生しようとしている宿もあります。
──山崎さんはコロナ禍でも営業を続ける旅館を数多く取材されていますが、現在、旅館はどのような感染対策がなされていますか?
山崎:宿泊業界団体のガイドラインに従い、それぞれの旅館が工夫したコロナ対策をしています。それぞれの自治体でも少し異なります。
例えば新潟県の旅館はピクトグラム(アイコン)を一覧表にして、お客さんが一目でコロナ対策を理解できるようにしています。そして感染拡大している時には、女将やスタッフは「三歩離れて、一歩前へ」というキャッチコピーに基づき、お客さんをもてなす距離感を心がけているそうです。
この他、食事処の各テーブルの仕切りに立てたアクリルが、あたかもインテリアの一部のように見えるように工夫したお洒落な宿もありました。
温泉旅館は基本的には寛ぐ場所です。今は特に、コロナ禍で大変な状況に疲れているお客さんに、どれだけ現実を忘れさせてくれる空間を提供できるかどうか、旅館のセンスが問われているように思います。
隅々まで行き届いた空間を作り出すために、女将が中心になって工夫している宿が多いですね。
──山崎さんは新著『女将は見た 温泉旅館の表と裏』で全国の女将を取材していますが、旅館のあり方を女将の視点で取材しようと思ったきっかけは何でしょうか?
山崎:長く旅館を取材してきて、最も旅館の内情を知るのは女将だと思ったからです。ただ今回、本の執筆のために新たに取材した宿はほとんどありません。これまでの女将との付き合いの中で聞いた話から、面白そうなエピソードをピックアップしました。
例えば、宿を新規オープンする時にどんな準備が必要なのか、料理長や旅館オーナーとの関係、源泉を守るための工夫や、かつて温泉地に“種馬”がいたなど意外な話まで、バリエーションに富む話題で構成しています。
そして女将自身の仕事では、旅館で起きるお客さんとのトラブルの対処が実に見事です。
──女将のトラブル対処とは具体的にはどのようなものでしょうか。
山崎:例えば激怒しているお客さんには、どのようなタイミングで謝りに行くかが重要だそうです。間合いを間違えると火に油を注ぐことになりますから。怒りが収まらないお客さんには、振り上げた拳を下ろす場所を用意するという思いも込めて、ずっと話を聞くのだそうです。するとお客さんは気分が良くなって、最終的には笑顔で帰っていき、時にはリピーターにもなるようです。これは、ビジネスシーンにも活かせることだと思います。
取材で最も心に残ったのは、先ほどの鷗外荘の中村みさ子女将がよく口にされた「人は人でしか磨かれない」という言葉です。日々、お客さんをもてなすことで手腕がどんどん磨かれるのが旅館の女将なのだと知りました。
──コロナ禍において、私たちの暮らしにも参考になる女将の知恵はありますか?
山崎:今、このような状況の中で、人との繋がり方が変わってきていると思います。女将の人心掌握術というか、お客さんを大切にする姿勢は、学ぶことがたくさんありました。例えば、私が出会った女将たちはお客さんや仕事で関わる人たちに直筆で手紙を書かれています。それも定型文ではなく、本当に心からの言葉を綴るのです。SNSが浸透し、インターネットでは情報が溢れる中で、「コロナ禍では肉筆や肉声のみが信じられる」とおっしゃったのは山形県かみの山温泉古窯の女将・佐藤洋詩恵さんです。
実はこのような考え方は、多くの女将が持っています。直筆の手紙がきっかけで女将の人柄に惹かれ、やがて旅館の常連になっていきます。結果として、ファンビジネスが成立しているのです。
人と人との距離を保たなければならないコロナ禍こそ、私自身もこうした女将のふるまいを見習い、人脈形成術を身につけたいと考えています。
観光産業である旅館は、今苦しい状況に置かれていますが、女将たちが実践する日本の「おもてなし」の精神にこそ、活路があるのかもしれないですね。
【プロフィール】
山崎まゆみ(やまざき・まゆみ)/温泉エッセイスト、跡見学園女子大学兼任講師(観光温泉学)。新潟県長岡市出身。日本全国のみならず、世界32か国以上の温泉を巡り、その魅力を発信しいる。著書に、『だから温泉はやめられない』『ラバウル温泉遊撃隊』(ともに新潮社)、『白菊-shiragiku-』(小学館)、バリアフリー温泉の宿を紹介するシリーズ第3弾『行ってみようよ!親孝行温泉』(昭文社)などがある。国の有識者会議にも多数参画。