松山千春(65才)の隠れた名曲『あなたが僕を捜す時』は、父親が認知症を患ったときに作った曲だ。そして母親も長年、同じ症状と闘ってきた。極貧時代から闘病にいたるまで、つらいはずなのになぜか心温まる、家族の物語。
北海道・足寄町の春は短い。町花に指定されているエゾムラサキツツジが野山を埋め尽くす4月下旬まで春はなく、その空気を深く吸い込めば、吐く頃には緑色の夏がやってくる。道内でも雪が少ない十勝平野に位置するが、1月は、あたり一面が銀世界となり、刺すような寒さが襲う。
この町の人に「特産品は?」と尋ねると、皆が口を揃えて「松山千春が生まれ育ったことだね」と答える。地元に愛され、そして地元を愛する歌手・松山千春(65才)の母・ミヨさんが1月16日に亡くなった。享年99。老衰だった。過去に千春の両親や関係者への取材を基にした評伝を著した、音楽評論家で尚美学園大学副学長の富澤一誠氏は、「この母あっての松山千春だと思います」と語る。
千春の父・明さん(享年80)は地元で、『とかち新聞』というローカル紙を創刊し、取材から植字、印刷まですべてを1人でやっていた。発行は10日に1回程度で収入にならない。家計を支えたのはミヨさんだった。
「ミヨさんは土木作業をしていたんです。彼女は一言で言えば豪快な人。子供3人と夫を養うため、長期間、家に帰らず泊まり込みで働き、お金を置いて、また働きに行く。自宅近くのゴミ捨て場を漁って使えそうなものを拾うこともあったと話していました。かといって、取材をしていても陰を感じない、ユニークなタレント性を持つ人でした。千春の唯一無二の空気感は母親から継いだものでしょう」(富澤氏)
そうしたミヨさんの姿を町の人たちも見かけていた。
「この町にお金のある家なんてないけれど、当時の松山さんのところは特に貧しかったね。リヤカーに千春さんを乗せたお母さんが、ゴミ捨て場で銅線や椅子などを拾っているのを見たことがありますよ。それでも、お母さんは明るい人でね、堂々と胸を張っているんですよ。一度、お母さんに『大変ですね』って声をかけたら、『好きになった人がああいう人だから仕方ないわよ』って笑っていました」(千春の実家近くの商店主)
リヤカーに乗った千春は恥ずかしそうにうつむいていたというから、幼心にも家の困窮ぶりを自覚するところがあったのだろう。冬場は、雪で現場仕事がなくなる。それでも、ミヨさんが家に居ることは少なかった。
「あの人はとにかくトッパ、このあたりでは花札をそう言うんだけれど、トッパが大好きでね。大昔には、警察沙汰になったほどです。それでもやめなかった。春から秋にかけて稼いだお金で、冬場は花札。いろんなところでやるから、“花札ツアーに行く”って言って、長い間、家に帰らないんですよ。
それだけ聞くと、とんでもない母親に聞こえるけど、家族を支えていたのはミヨさんだったし、何よりも持ち前の明るさで家族からもご近所さんからも、本当に好かれていましたね」(足寄町民)