作家の甘糟りり子氏が、「ハラスメント社会」について考察するシリーズ。今回は、当面はくすぶり続けそうな森喜朗氏の女性蔑視発言問題について。
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東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長を辞任してもなお、森喜朗氏への批判が止まらない。あれだけの女性蔑視の発言をしたのだからもはや擁護のしようもないけれど、森氏への批判に対して「いじめ」だの「不寛容」だのという発言があると知って、これはまだまだ声をあげていかなくてはならないと思った。
話が長い男性だっているし、話が短い女性だっているし、論議すべき議題があるなら話が長いのは非難されることでもない。あらかじめ根回しされた議題を形だけ会議にかけるのが習慣になってしまって、挙げ句に意見のやり取りを話が長いと感じるようになったのだろうか。
森氏いわく「話の長い」ラグビー協会の女性委員に対して、JO Cの女性委員は「わきまえている」のだそうだ。「わきまえる」とは、すべきこととすべきではないことのけじめを心得ることで、その上には「身のほど」という言葉がよく使われる。つまり森氏の発言は、JOCの女性委員たちは自らを強く意見すべき立場ではないと自覚して、おとなしくしているとの意味に取れる。女性男性に限らず委員なら誰でも意見を持つべきだし、それを発信するべきだ。女性だからといって意見を引っ込めるのが美徳のような感覚は差別もはなはだしい。
この発言一つからも、JOCの空気が手に取るようにわかる。私も何度か体験した。意見を持つだけで強い女扱いされ、うっとうしがられ、あれでは結婚相手が見つからないなどとからかわれる。強い女はかっこいいと思うけれど、強かろうが弱かろうが意見はあっていいのに。どうしてこんな普通のことを感じだけで「いじめ」で「不寛容」などという人が出てくるのだろう。
Twitterでは、#わきまえない女というハッシュタグがトレンド入りした。もはや私たちはわきまえている場合ではないのだと思う。
そんな中、日本オリンピック委員会理事の山口香さんが声をあげた。インタビューを受け、大変恐縮ですけれど、と前置きした上で、「森会長が自ら外れていただけたら、五輪に希望が残る」といった(恐縮なんかする必要などないはず)。これに続く関係者はいないのだろうか。もちろん続くのが女性である必要はない。むしろ男女ともに続く人が現れれば、日本の男尊女卑のイメージを少しは変えられるのではないだろうか。ジェンダーギャップ指数121位の日本のイメージを。
私が「インクルージョン・ライダー」という言葉を知ったのは2018年3月のアカデミー賞授賞式の中継だった。主演女優賞を受賞したフランシス・マクドーマンドは、スピーチの途中「どの賞であれ、ノミネートされている女性たちは立ち上がって!」と促し、そしていった。「私たちには伝えるべき物語がある、資金を必要としている企画があるんです」。多くの女性たちを勇気づけたスピーチだった。その最後に今夜残しておきたい言葉として「インクルージョン・ライダー」と述べたのだ。「包摂条項と訳されるそれは、契約を結ぶ際キャストやスタッフについて人種や性別などの一定の割合を条件にできるものだ。
遠いハリウッドの世界のことと思わずに、私たちもこの発想を取り入れるべきではないだろうか。
件の森氏の発言は、JOC委員会に文科省から女性の比率を40%という指導があって、それについて出たものと報道されている。数だけ合わせても仕方がないという意見もあるが、私はそう思わない。例えば、もし今書いているような内容を男性性10人の中で一人で述べるのと、半分が女性の場で述べるのとでは明らかにプレッシャーが違う。どんなに正しいことだと信じていても、同じ立場の人がいなければ気持ちは揺らぐ。私を含めてたいていの人はそんなに強くないと思うのだ。
件の「女性は話が長い」という発言の際、笑い声があがったという。そんな中で異を唱えたくても、唱えにくい空気だったことは安易に想像できる。異を唱えようという人が男性だってそうだ。
多様性というフレーズを、単なる流行りのものとしてではなく、意識高い系などとからなったりせず、きちんと受け止めなければならない。世の中には男性と女性がいて、それぞれ異性愛者、同性愛者、両性愛者がいてトランスジェンダーなどさまざまな有様の人がいる。男性、女性、両性の三種類ではない。謝罪の記者会見で女性登用について考えを問われ、「女性と男性しかいないでんすから。もちろん両性というのもありますけどね」と答えた森氏は、おそらく自分の理解できない有様をすべて「両性」とひっくるめてしまったのだろう。あまりにも雑な言葉遣いである。
自分とは違う有様の人がいること、そしてそれを尊重することが大切だと思う。オリンピックが中止になっても開催されても、開催されたとしてそれが終わってからも。