今年もまた、2月26日がやってきた──。今から85年前の1936(昭和11)年2月26日、大雪に見舞われた帝都・東京で“事件”は起きた。1500人近い陸軍将兵らがクーデターを図った「二・二六事件」である。
今年1月に90歳で亡くなった“昭和史の語り部”作家の半藤一利氏も、この事件についてさまざまな視点から言及していた。中でも印象的なのは「宮城(皇居)占拠計画」に関する指摘だろう。
〈彼らが狙ったのは、天皇陛下というものをわが手で押さえてしまおう、そうすれば、明治維新の時に「玉(ぎょく)を押さえる」ということで、薩摩と長州と土佐が明治天皇を頭に戴(いただ)いて偽の命令を出し、あっという間に官軍になってしまった歴史的事実がありますので、この場合も昭和天皇を背後に戴くことによって自分たちが官軍になる、これに敵してくる者たちは賊軍になるという方式を考えたのです。〉(『昭和史 1926-1945』「二・二六事件の眼目は『宮城占拠計画』にあった」)
「尊王義軍」という論理
主謀した「蹶起(けっき)部隊」の青年将校たちは、時の首相や蔵相ら政府要人を暗殺するばかりか、皇居までも占拠する——まさに“日本改造”を企図していた。その背景に「官軍」「賊軍」の考え方があったとするのは半藤氏ならではの解説だが、さらにそこから権力の中心にある天皇が「維新」のために担ぎ出される経緯が解き明かされる。
〈こうなると「明治維新」です。彼らは事件を「昭和維新」と銘打ち、自分たちは天皇陛下を尊び、義のために立った「尊王義軍」と称しました。確かに彼らの気持ちの中には「天皇陛下のために立ち上がる、そして陛下はそれをわかってくださる」という確信があったのでしょう。[中略]そこで彼らは何を考えたのか、先に申しましたが、宮城をまるまる占拠しようとしたのです。〉(同前)
しかし、当の昭和天皇は兵士らの蹶起に激怒し、即座に事件を終息させるように命じた。当時側近だった陸軍の本庄繁・侍従武官長が日記に残した天皇の言葉はよく知られている。
「朕(ちん)が股肱(ここう=腹心)の老臣を殺戮(さつりく)す。この如き凶暴の将校ら、その精神においても何の恕(ゆる)すべきものありや」
結局、蹶起3日目の2月28日、天皇から各部隊に撤退を命じる「奉勅(ほうちょく)命令」が下達。参加した下士官や兵士たちは「叛乱部隊」とされ、青年将校たちは収監・処刑された。