フィクションにどこまで現実を反映させるかは作り手にとっては大きな問題だ。登場人物がマスクを着け、ソーシャルディスタンスを守り、飲食店は20時で閉店する──そんなリアルな世界を描くべきか、はたまた創作は自由であるべきか。コロナ禍の新たな表現様式について『澪つくし』『独眼竜正宗』などの作品で知られる脚本家で演出家のジェームス三木氏が語った。
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私がドラマ制作で学んだのは、数千万人の視聴者が“テレビ画面のどこを見ているか”ということ。
人間は他の動物と違い、本心を隠してお世辞を言ったり、嘘をついたりする。そのため、相手が敵か味方か見分けるため本能的に相手の顔色や指先のしぐさを用心深く見るんです。
実際に目の前にいる人の顔をじろじろ見るのは憚られますが、テレビの視聴者は遠慮がないため、画面に出てくる役者の顔を直視する。その顔色や目つきから言動とは裏腹の内心を読み取るのです。
演出家の和田勉は、人の顔でも灰皿でも本物より大きく映る映画の迫力に負けまいとして、テレビ画面から役者の顔がはみ出るようなズームアップを多用していました。
ドラマは俳優の表情が命。顔の半分以上を覆い隠すマスクをつけての表現はかなり困難です。
とはいえ、ドラマは、常に“世の中の変化”との戦いです。
2015年に脚本を書いたNHKの『経世済民の男・高橋是清』(主演・オダギリジョー)もそうでした。是清はヘビースモーカーだったが、コンプライアンスの観点からタバコを吸う場面はすべてカットされた。同様に私が脚本を担当した泉ピン子主演の『手ごろな女』(1980年、日本テレビ系)も今ならクレームがつきそうなタイトルです。
インターネットや携帯電話など新たな文明の利器の登場や、かつてはなかったコンプライアンスの問題が次々と出てくる。そのたびに世の中が変わり、表現もそれに合わせて変えていかなければならない大変さは今に始まったことじゃない。
脚本家は上手くコロナと付き合っていくほかないのだと思います。
※週刊ポスト2021年3月19・26日号