【書評】『クララとお日さま』/カズオ・イシグロ・著 土屋政雄・訳/早川書房/2500円+税
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
大昔から人間は人間の似姿を造りたがってきた。絵画や人形に始まり、「フランケンシュタイン」に始まる「人造人間」、人体の改造や機能拡張があり、「ロボット」が誕生し、そしてAIが現れた。人が自分の模造物を造りたがるのは、死、あるいは自己の消滅への恐れを紛らわすためではないか。ある意味での不死の達成。
そういう意味でも、『クララとお日さま』は実に示唆に富む寓話だ。語り手兼主人公は、子どもの遊び相手となる「AF」と呼ばれる人工知能ロボットの「クララ」。優秀なAFのクララは、体の弱い「ジョジー」という推定十四歳半の少女の家に買われていく。
家には、母親と家政婦がおり、父親の姿は見えない。この国には、どうやら人びとを二つの層に分けるシステムが存在するようだ。あることを受け入れた人と、そうでない人では、生活に歴然とした格差が生じている。ジョジーは異なる階層の男の子「リック」と将来を約束しあっているが……。
AFは高い認知力と学習思考力、豊かな感情を有し、とくにクララは観察力にずば抜け、窓を通じて世の条理(というより不条理)を看破する。クララがつねに何かの「窓」=フレームを通して世の中を見ているのは、AFが人間と酷似しながら本質的には自由のない存在であることを示すものだ。この落差の残酷さと哀切をイシグロは劇的な仕掛けを用いず、淡々と描きだす。
とはいえ、再度翻って考えれば、服従を強いられ感情を殺して他者に仕えるAFのような扱いを受けている人間はいるのではないか、というイシグロの厳かな問いかけもある。先行作の『わたしを離さないで』にも通じるだろう。
AIに感情を超えた「心」はあるのか? 人の生の「継続」、不老不死は可能か? 再現不可能な「個人性」というものはあるか? 本作は静かに問い続ける。クララの抑制された語りに、『日の名残り』の執事を想起する読者もいるだろう。イシグロ作品の集大成であり新境地だ。
※週刊ポスト2021年4月2日号