【書評】『ニュー・アソシエーショニスト宣言』/柄谷行人・著/作品社/2400円+税
【評者】大塚英志(まんが原作者)
本書のあとがきは高瀬幸途と内藤裕治という、柄谷の運動をそれぞれ、実践と理論という正反対の裏方として支えた二人の編集者への弔辞と回想によって占められる。そのせいか、本書は柄谷の民主主義への弔辞のようにさえ思える。かつて中上健次の死とともに文学を見送った柄谷は、今度は民主主義を見送ろうとしている。そういう批評的野辺送りの印象さえある。
今世紀初頭、柄谷がNAMという社会運動を組織し頓挫したことをどれくらいの人が覚えているのか。当時、僕は僕より一世代上の高瀬のいた出版社の一介のライターとしてその裏方に奔走する彼の姿に同情しつつ、他方で、柄谷に承認欲求が満たされることを渇望する、僕より一世代若い批評家予備軍がまるでかつての新左翼にも似た内部崩壊を起こす様を遠く離れて見ていた。選ばれたい彼らに選ばない籤引きの組織体を主張したのはそういう彼らへの「批評」にも見えた。
本書はNAM解体後絶版となった『NAM原理』を高瀬による柄谷へのインタビューを加え再版したもので、高瀬の死によって中断していたものが形となったようだ。本書を読み興味深かったのはNAMを柳田國男の明治期の協同組合運動から説き起こしている点で、実は柳田國男の「民俗学」そのものが常民の知と生活の双方を包括する社会運動であり、その可能性と失敗、差異を明確にすることでNAMの意味はかなり明確になる気がした。そのあたりを柄谷から引き継ぎきちんと論じられる者はいないのだろうか。
僕は一度だけ柄谷と話したことがある。近代などというものは努力目標で、しかし達成できっこないと放擲するニヒリズムでなく、無駄な努力の継続が唯一の選択なのだと話した記憶がある。柳田の学問もNAMもそういう不断の努力の継続である。ぼくはコロナがNAM的なものの可能性を開く奇貨であるとは考えないが、この先は柄谷の問題では無論ない。さて、誰が不断の努力の継承者となるのか。
※週刊ポスト2021年4月9日号