一代にして西武グループを作り上げた“ピストル堤”こと堤康次郎と、東急グループの礎を築き、“強盗慶太”の異名を取った五島慶太。ともに巨大グループの創始者である2人は、生涯にわたって火花を散らした。
西武王国・堤家支配の仕組みを解明した『ミカドの肖像』と東京の都市開発について五島を軸に徹底検証した『土地の神話』(ともに小学館刊)などの著書を持つ作家の猪瀬直樹氏が語る。
「昭和初期、東京への人口集中に伴い私鉄の線路を伸長し、沿線に家を建てて売るというビジネスモデルで成り上がったのが、堤と五島だった。
不動産に目をつけた点は同じだが、堤は軽井沢のリゾート開発をはじめとするレジャー重視の“ホテル王”。一方の五島は、鉄道会社を次々に買収・合併し路線を拡大した“鉄道王”だった。得意分野は異なっていたが、強引な経営手法とエキセントリックな性格の持ち主という点は奇妙に似通っていた」
西武は東京北西部、東急は南西部を中心に土地開発を行なっていたが、グループ拡大という“野望”が、次第に両者を衝突させていく。なかでも“最大の戦い”となったのが、1947年から始まり、後に獅子文六の小説『箱根山』のモデルにもなる「箱根山戦争」だ。
傘下の駿豆鉄道を通じてバスを通し、芦ノ湖に遊覧船を航行させるなど、箱根開発で先行していたのは堤だった。
そこに五島を後ろ盾とする小田急が箱根湯本までロマンスカーを乗り入れ、さらに箱根登山鉄道を傘下に収めて強羅からケーブルカーを新設。堤の牙城へと切り込んでいった。
「五島は西武グループが建設した私有道路に定期バスを走らせようとしたが、堤が道路に有刺鉄線を張るなどして拒否。定期バスを巡る争いは実力行使から法廷闘争にまで持ち込まれた。
堤としては巨費を投じ、苦心惨憺の上に建設した私有道路を易々と使われてはたまらないという気持ちだった。堤が五島のことを“まるで強盗だ”と罵るほど激しい戦いだった」(猪瀬氏)
この闘争が決着する前に両雄は死去。「箱根山戦争」は二代目の堤義明、五島昇の代まで続いた。