昭和を彩ったスターには、自他ともに認める「好敵手」がいた。“ミスタータイガース”村山実は「打倒・長嶋茂雄」に闘志を燃やした野球人生だった。
今も語り継がれる1959年6月25日の天覧試合。同点の9回、ルーキーの村山は長嶋にサヨナラアーチを浴びる。長嶋のガッツポーズに球場は大歓声に包まれるが、ただ1人、「あれはファウルや!」と村山はマウンドで激高した。1998年に61歳の若さで逝去するまで、この主張を曲げなかった。
この年の2人の対戦成績は23打数3安打。天覧試合以降は、1本のヒットも許さなかったが、3安打はいずれもホームランだった。
村山が「1500奪三振を長嶋から奪う」と宣言すると、長嶋も「たとえバントをしても、私は村山君には三振しない」と言い返し、意地を剥き出しにした。この勝負は村山に軍配が上がり、1500奪三振のみならず、2000奪三振までも長嶋から記録した。
虎番記者として村山の投球を間近で見てきたデイリースポーツ元編集局長の平井隆司氏が語る。
「私たち記者は“巨人に負けるのはアカンが、絵(記事)になる長嶋になら打たれてもいい”というのが本音でしたが、村山は“巨人に負けてもいいが、チョーさん(長嶋)だけには打たれたくない”と言っていた。
村山は長嶋を抑えるためならなんでもした。決め球のフォークを磨くために、布団の中でもボールを指に挟んで眠ったというし、挟む力を鍛えるために一升瓶を指で挟んで持ち上げるのが日課でした。
長嶋との対戦はノーサインで投げていました。長嶋は捕手の構えているところがわかるというので、わざと逆コースを投げていた。捕手には“黙って座っておれ。お前のサインは全部読まれる”と言っていたほどです」