4月19日は「地図の日」。1800年(寛政12年)に伊能忠敬が蝦夷地測量への第一歩を踏み出した日にちなんでいるという。このたび、小説『道をたずねる』を上梓した作家・平岡陽明氏が、貴重な地図を数多く所蔵する「ゼンリンミュージアム」(福岡県北九州市)を訪問。地図の歴史をたずねてみれば、当時の世界情勢や日本の世相がよく分かる。
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人が地図をつくりたくなる理由は2つあるようだ。
ひとつは、未知の場所について知りたいから。もうひとつは、それが利につながるから。そのどちらか、あるいは両方が揃ったとき、人は地図づくりという途方もなく困難な作業に乗り出すらしい。
大航海時代の欧州人もそうだった。未知なる極東にロマンを感じ、そして黄金の国・ジパングで一儲けを企んだ。オルテリウスの地図帳『世界の舞台』(1595年)には、石見銀山が大きく載っている。当時、日本の銀の産出量は世界の3分の1を占め、日本の銀を世界へ持ち出せばボロ儲けできたからだ。
日本にやって来た宣教師たちは布教と貿易をセットで考えていた。豊臣秀吉も初めはバーターに応じて布教や測量を許していたが、やがて危機に気づき禁教に。その政策は徳川幕府に鎖国として受け継がれた。
江戸時代の初期には、ポルトガル人のモレイラが比較的正確な日本地図を作り上げたが、やがて退化していった。地図の正確さは、必ずしも時代と共に進化しないのだ。
江戸幕府は日本地図を制作するプロジェクトを何度も立ち上げた。伊能忠敬が手がけた日本地図もそのひとつで、調査には公費も使われた。伊能図の特長は、なんといっても海岸線の綿密な測量にある。忠敬は17年かけて4万キロを歩き、とうとう実測に基づく日本地図を完成させた。
とはいえ伊能図は、いってみれば公儀の「秘図」である。庶民はもっぱら長久保赤水の「赤水図」を使った。江戸期後半の大ベストセラー地図である。この2つの地図は明治初期まで実用性を保った。
西洋人の冒険心と支配欲によって制作が始まった日本地図は、江戸期の赤水図や伊能図に引き継がれ、近代に入り更なる進化を遂げることになる。