日本人初のノーベル賞受賞者となった湯川秀樹と、2人目の受賞者・朝永振一郎。2人は終生のライバルであると同時に、同じ釜の飯を食った「同志」でもあった。2人をめぐる物語を振り返ろう。
ともに父親が京都帝大教授で、同じ京都一中に入り、第三高等学校、京都帝国大学で同学年として学ぶ。最初に所属した研究室まで一緒だった。
大阪大学総合学術博物館湯川記念室で委員長を務める、大阪大学・兼村晋哉教授が語る。
「2人は1929年に京大を卒業しましたが、世界恐慌で就職先がなかったため、無給の『副手』として大学に残り、しかも同じ研究室を2人でシェアしていた。その頃のことを朝永先生は『湯川君は考え出すとぶつぶつ独り言を言ってうるさいので、僕は図書館に逃げることにしていたよ』と振り返っています」
2人が量子力学との「運命的な出会い」をしたのもこの時期のことだ。海外の最前線で量子力学を学んできた物理学者・仁科芳雄が京大で特別講義を行ない、いたく感銘を受けた2人は、ともに量子力学の道を進むことになったのである。
その後、朝永は仁科に誘われて東京にある理化学研究所の研究員になり、湯川は大阪帝国大学理学部に赴任する。学問の主流は当時も東大と京大だったが、こと量子力学という新しい学問に関しては「東の理研、西の阪大」と称されていたからだ。
こうして個々に自身の研究課題に取り組みながらも、2人はお互いを認め合い、切磋琢磨を続けていたと兼村氏は言う。
「2人は文通というか、手紙を通じて意見を交わしていました。湯川先生は核力の研究をしていた時に自分の考えをしたためて朝永先生に送り、それに対して朝永先生が自分の考えを計算式に示した。その計算式は、その後に湯川先生が公表する理論のキモの一部だったと言われています」