昭和の時代を彩ったライバル関係として、将棋界で真っ先に思い起こされるのは、十五世名人の大山康晴と実力制第四代名人の升田幸三だ。昭和中期の二枚看板で、タイトル戦で激しく火花を散らした。
「高野山の決戦」「王将戦での香落ち指し込み」「升田式石田流の名人戦」。2人の戦いは単なる勝ち負けだけではなく、いつも大きな見出しになるような激しさと華やかさがあった。
両者は一般的なライバル関係ではない。同じ木見金治郎九段門下で、升田の3年後に5歳年下の大山が入門してきた。1935年のことである。2人は兄弟子と弟弟子の間柄だったのだ。
兄弟子の升田が大山に稽古をつける。立て続けに何番も負かしたあげく、「大山、田舎へ帰れ」と言い放った話は有名だ。
見返すには強くなるしかない。兄弟子への感謝と敵愾心を抱きながら修業に励んだ大山はいつしか升田と大勝負を争うようになっていた。升田に仲人を務めてもらい、大山とは125局も対戦した加藤一二三九段はこう証言する。
「攻めの升田、受けの大山と2人の棋風は対照的でした。升田先生は芸術家肌で、新戦法を次々と開発しました。一方、大山先生はリアリストで、辛抱強く堅実でした」
2人の勝負で最も有名なのは、1956年の王将戦だ。当時の王将戦は一方が3連勝したら香車を落とす、つまりハンディ戦にするという厳しい規定があった。香車を落とされる側は屈辱である。
このシリーズで升田は名人の大山に3連勝し、第4局では香を引いた。そしてハンディ戦でも勝利。令和の今まで、その偉業を達成したのは升田ただ一人である。
「升田先生は13歳の時、母親の物差しの裏に『名人に香を引いて勝つ』と書き置きを残し、家出して棋士になりました。その夢が叶ったのだから本望だったでしょうね。大山先生は悔しかったでしょうが、その敗北で奮起したことで、以降は升田先生を寄せつけませんでした(通算対戦成績は大山の96勝70敗1持将棋)。大山先生はとにかく負けず嫌いで、悔しいことがあると1時間くらいの道のりなら平気で歩いて帰る方でした」(加藤九段)