昭和という時代を彩ったライバル関係、さまざまなジャンルでの切磋琢磨が日本という国を強くした。1970年代後半から1980年代にかけ、「日本柔道界最強」を誇ったのが山下泰裕だ。中学時代から怪童と呼ばれ、1977年の全日本選手権では19歳で史上最年少優勝。前人未到の203連勝も成し遂げた。その最強の男に挑み続けたのが、3学年下の斉藤仁だった。
斉藤も10代からその才能は図抜けていた。しかし頂点を極めるには、山下という存在を超えていくしかない。
1976年、国士舘高校柔道部監督(当時)の川野一成氏は、入学したばかりの斉藤に「山下君に勝ちたいか?」と訊ねた。すると斉藤は「勝ちたいです」と即答したという。川野氏が振り返る。
「斉藤の決意は本物だと感じました。そこで右利きの斉藤の組み手を、あえて左手に変えさせたんです。当時、右手で組む選手は左組み手の山下君にまるで歯が立たず、そのほうが勝機があると考えた。まだ斉藤にとって山下君が雲の上の存在だった頃から、強く意識させました」
初対決は1979年、全日本学生選手権・無差別級決勝で実現した。6分半に及ぶ激闘の末、山下が上四方固めで一本勝ちしたが、その試合で斉藤は「山下の好敵手」として一気に注目を集めるようになった。
ロサンゼルス五輪では、山下(無差別級)と斉藤(95キロ超級)は揃って金メダルを獲得。しかし斉藤の心は晴れなかった。それまで山下と7度戦い、全て敗れていたからだ。
「俺はエベレストに登ったが、富士山にはまだ登っていない」
斉藤は、打倒・山下への思いをそう表現した。
8度目が、2人の最後の対決となった。1985年4月29日の全日本選手権。山下はこの試合で引退することを決めていた。
試合開始から4分、山下が支え釣り込み足を仕掛けると、斉藤は大外返しで反撃。足をかけ損なったが、浴びせ倒しのような形で一緒に畳に倒れ込んだ。
斉藤の有効かと思われたが、審判は手を上げなかった。そこが勝負の分かれ目だった。その後は山下が攻め続け、判定の結果、山下の優勢勝ちとなった。
審判員の1人として会場で試合を見届けた正木照夫氏(正木道場館長=八段)が振り返る。
「審判団の意見も割れましたが、主審は斉藤にポイントを与えませんでした。あの時、山下は背中から落ちる寸前に体を回転して畳に胸を向けた。さすがの運動神経でした。後日、私が『あそこで勝ったと思ったか』と聞くと、斉藤は『思いました』と頷いた。紙一重の勝負でした」