3月場所中に鶴竜が引退し、5月場所は白鵬が初日から休場。横綱不在の本場所が盛り上がりに欠けるのは当然だ。大相撲の歴史は、横綱同士のぶつかり合いによってつくられてきた。それゆえ、ライバル同士の四股名を冠した“時代”がいくつもある。栃錦と初代若乃花が鎬を削った「栃若時代」(昭和30~35年)、柏戸と大鵬の「柏鵬時代」(昭和36~44年)、輪島と北の湖の「輪湖時代」(昭和49~55年)などがあるが、長く続くと思われた“2強”の関係が突然、終わりを迎えたこともある。北の富士と玉の海の「北玉時代」だ。
昭和45年(1970年)1月場所の千秋楽結びの一番では、北の富士と玉の海(当時・玉乃島)の両大関が対戦し、玉の海が勝って13勝2敗で2人が並び、賜杯の行方は優勝決定戦にもつれた。決定戦では北の富士が勝利して2場所連続優勝を果たし、2場所前に優勝していた玉の海とともに、横綱へのダブル昇進が実現する。翌年には昭和の大横綱・大鵬が引退し、東西の横綱に北の富士と玉の海が並ぶ新時代となった。元NHKアナウンサーで33年間にわたって大相撲中継を担当した杉山邦博氏はこう言う。
「一般的には、柏鵬時代から輪湖時代に移っていったといわれていますが、その間にたしかに、『北玉時代』がありました。ただ、“大鵬の後継者”といわれていた玉の海が、大鵬の引退からわずか数か月後に亡くなってしまい、2人の時代は突然、終わりを迎えたのです」
玉の海が急性虫垂炎を発症したのは、昭和46年(1971年)の7月場所後の夏巡業中のことだった。緊急入院したが、次の場所後に大鵬の引退相撲を控えていたため、手術をせずに痛み止めだけで9月場所に出場。場所後の引退相撲では、大鵬の土俵入りで太刀持ちを務めた(露払いは北の富士)。その後、ようやく虫垂炎の手術を受けた玉の海だったが、術後に心臓動脈幹血栓症で急死したのである。まだ27歳だった。
玉の海と同じ片男波部屋の弟弟子で、体つき、相撲ぶりから「玉の海二世」と呼ばれ、現在は埼玉県秩父市でちゃんこ店「やぐら太鼓」を経営する元小結・玉輝山の萩尾正則氏はこう振り返る。
「うちの横綱(玉の海)が亡くなった時は、静岡での巡業中でした。雨が降って中止かの判断待ちをしていました。その日、横綱は退院して巡業に合流すると聞いていたのに、テレビの緊急ニュースのテロップで“玉の海急逝”と流れたんです。てっきり、解説者の玉ノ海梅吉さん(元関脇)が亡くなったのだと思ったら、2時間後にうちの横綱だとわかった。にわかには信じられなかったですね……」