新型コロナウイルスの感染拡大によって無観客開催の可能性が取り沙汰される東京五輪だが、本来であれば旧来のやり方を大きく改革した「マラソン代表選考」の結果が試される場として注目されるはずだった。基準を満たした実力者のみを集めた事実上の“一発勝負”となるMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)が導入され、それを取り仕切ったのが日本陸連マラソン強化戦略プロジェクトリーダーの瀬古利彦だ。
瀬古のマラソンランナーとしての成績は輝かしいものだ。四日市工業高校では、全国高校駅伝「花の1区」を3年連続で走り、早大に進学すると箱根駅伝「花の2区」に4年連続で出場し、3年、4年時は区間新記録を更新した。マラソンデビューは早大1年だった1977年の京都マラソン。3年時に福岡国際に初優勝すると、翌年はボストンマラソン初挑戦にして2位に入った。卒業後はエスビー食品で競技を続け、1988年に引退するまでマラソン15戦10勝の成績を残している。瀬古はこう振り返る。
「やはり、切磋琢磨するライバルの存在は大きかったと思います。宗(茂、猛)兄弟がいたし、そのあとには中山(竹通)君がいたからね。彼らが凄い練習をしているという話を聞いて、そのあと記録を出したりすると、私も頑張らないといけないという意識を持つ。お互いに意識し合って、相手に認められたいと思うことが、良い結果につながっていったのだと思います」
その一方で、オリンピックでのメダルには縁がなく、1980年モスクワ五輪は冷戦下で日本がボイコットしたことにより出場のチャンスを奪われ、1984年のロス五輪は調整がうまくいかず14位に終わった。そして、キャリアの集大成として臨んだ1988年ソウル五輪の代表選考では、思わぬ騒動に巻き込まれた。
当時、五輪代表の選考は福岡国際、東京国際、びわこ毎日の3レースの成績を参考にするのが慣例だったが、気象条件もコースも違うレースでは不公平になるという批判に応えるかたちで、陸連は強化選手に「1987年12月の福岡国際マラソンへの出場」を義務づけた。事実上の“一発勝負”で3つのイスを決めることになり、中山竹通、児玉泰介、谷口浩美、宗猛、伊藤国光、新宅雅也らと代表の座を争うことになった。
ところが、瀬古は大会12日前に突然、欠場を発表。左足腓骨(ひこつ)の剥離骨折が理由だった。すると陸連は、翌年3月のびわ湖毎日マラソンで瀬古が結果を残せば、代表入りできると方針転換し、中山が「這ってでも(福岡国際に)出てくるべきだ」と発言したと報じられて大騒動に発展した(後に中山は「自分なら這ってでも出る」と発言したと否定)。福岡国際では、中山がレース途中まで世界記録を上回るペースで走り、2位を2分以上引き離す大会最高記録タイ(当時)で優勝を果たした。瀬古はこのレースをどう見ていたのか。
「負傷したことで欠場しましたが、走れる状態で参加したとしても、あまり調子はよくなかったので、中山君にあのレースをやられたら完敗でしたね。ただ、自分が出ていたら違う展開にはなっていたと思う。あのレースは私が出なかったことで、中山君が意地と根性を見せ、“オレが世界一だ”ということを見せようとした走りだったと思います。
お互いに勝ちパターンというのがあって、私の場合はギリギリのところでスパートするし、中山君の勝ちパターンはロングスパートというか、最初から相手にレースをさせないという勝ち方です。まったく違いますよね。直接対決だったら、お互いが自分の勝ちパターンに持ち込もうとして、それをできたほうが勝つことになったでしょう。私が出場していたとして、中山君が序盤からドーンと逃げ切る度胸が果たしてあったかなというポイントはありますね。こればかりは、やってみないとわからないことですが」
福岡国際で1位だった中山、2位の新宅は代表に決まったが、翌年3月のびわ湖毎日マラソンで優勝した瀬古がソウル五輪代表の3枚目の切符を手にする。相当なプレッシャーがあったと瀬古は振り返る。
「福岡国際に出場できなかった時に1か月半から2か月ほど練習ができなかった。そこから急ピッチで仕上げたので、上っ面のスタミナしかなかった。体調は悪くなかったが、湖面に雲ひとつ映らない快晴で、気温が高い気象条件になったために、スタミナを消耗した。プレッシャーもかかって、後半はバテバテになりました。(優勝タイムは2時間12分41秒だったが)あれが普通の気象コンディションなら2時間10分は切っていたと思います。
重圧はもちろんありましたよ。“這ってでも出てこい”と言われていたんだから、這ってでもびわ湖で結果を出さないといけない。もちろん、自分がケガをしたのが原因だから仕方がないのですが……」