「吉田拓郎が『結婚しようよ』でフォークソングをメジャーにし、井上陽水が音楽性を追求した『氷の世界』を初のミリオンアルバムに導き、2人で現在のJポップへの道を切り開いた」
こう語る富澤一誠氏は、拓郎が『今日までそして明日から』を歌った1971年、彼に影響を受けて音楽評論家となった。
「それまでのフォークは反戦、反権威をテーマに『私たちは~』と連帯を呼びかけていたのに対し、拓郎は『私は~』という主語で身近な世界をフォークに持ち込んだ。フォークファンは商業主義だと抵抗感を示し、コンサートで拓郎が登場すると『帰れ』コールを浴びせました。しかし、拓郎は夏フェスの元祖となるつま恋オールナイトコンサートを主催するなど、実力で批判を跳ね返した」
一方の陽水はアンドレ・カンドレ名義で1969年にデビューしたが鳴かず飛ばず。その頃を知るのが関西フォーク界の重鎮、高石ともやだ。
「無名の頃によくコンサートで一緒でしたが、ギター1本で客ひとりひとりをねじ伏せるような歌でした。彼の言葉はとても鋭く、私らも近づけないような雰囲気でした。演奏している背中を見ると、なんだか切なかったことを覚えています」
1971年、井上陽水に改名してブレイク。名盤『断絶』『氷の世界』などに携わった音楽プロデューサー・川瀬泰雄氏は語る。
「陽水の本名は『あきみ』と読みますが、拓郎を意識したレコード会社が『拓郎(たくろう)のように陽水(ようすい)にしよう』と言い出して、本人は『そうですか』と受け入れた。彼にあったのは、ただいい曲をつくりたいという気持ちだけ。
『傘がない』は、私の家でつくりました。最初にできた曲にはサビがなかったので、コード進行を私が提案してサビをつけた。後年、娘を連れてコンサートへ行った時、『傘がない』を演奏してくれましたが、楽屋に行くと陽水がにやりと笑って“お父さん、『傘がない』はうちでつくったって言ったでしょう”と娘に聞いていた。実際その通りなので、読まれましたね(笑い)」