1970年代後半から1980年代にかけてマラソン15戦10勝という驚異的な成績を残したのが瀬古利彦だ。早稲田大3年だった1978年の福岡国際マラソンで初優勝。卒業後は海外レースでも優勝を重ねた。
その瀬古と競い合ったのがダイエーに所属していた中山竹通だった。初めて同じレースを走った1983年の福岡国際を瀬古はよく覚えているという。
「宗(茂、猛)兄弟らと翌年のロス五輪代表を争うレースでしたが、オレンジ色のユニフォームを着た腰高の背の高い男が、ずっと近くにいるんです。当時は誰か全くわからなかったけど、それが中山君だった。宗兄弟よりオーラがあって、自分が1位でゴールした後も彼が何位になったのか気になったほど(中山は14位)。“この選手は凄い”という強烈な印象が残った」
中山は長野県の池田工高を卒業後、富士通長野工場に勤務しながら競技を続け、ダイエー陸上部にスカウトされた。瀬古とは対照的なキャリアの“雑草”だった。
中山は当時のことを「とにかく1番を目指していた」と振り返る。
「這い上がるために勝たなくてはいけなかった。当時は所属企業が他社に負けるのを嫌がった。マラソンなら常に先頭集団にいないと、カメラに映らなくて宣伝効果がないと叱責される。そういう圧力をはね返すため、瀬古さんにも勝たないといけない。1番にならないとクビになるのだから」
中山は翌1984年の福岡国際で優勝。次の年には瀬古のマラソン日本最高記録を更新する。
そんな2人の“因縁”が、1988年ソウル五輪の代表選考だ。強化選手は1987年12月の福岡国際への出場が義務づけられていたが、大会12日前に瀬古がケガを理由に欠場を発表。それに対して中山が「這ってでも出てくるべき」と発言したと報じられたのだ。後に「僕なら這ってでも出る」という発言だったと否定した中山だが、改めてこう話す。
「そんな大層な発言をしたつもりはないのですが、本当に五輪に出たいならどんなことがあっても選考レースまでに治しますよ。熱があろうが、捻挫しようが、やるかやらないかです。その感覚がエリートと呼ばれる人にはないと感じていた。受験生が“熱っぽいから試験を明日にしてくれ”と言ってもダメでしょう? 自分ならルールを守って、どんな状況でも戦う。陸連のお気に入りの選手を派遣するなら選考会などやる必要ないでしょう」