フォークソングの二大巨頭、吉田拓郎と井上陽水。いまや押しも押されもせぬ重鎮の2人だが、人気が出始めた当時は、旧来のフォークファンから洗礼を浴びていた。それまでの反戦、反権威的なフォークとは異なる世界観で人気を博した彼ら。拓郎が『結婚しようよ』(1972年)などでブレイクした後に「商業主義だ」「軟弱だ」と批判を浴び、他のフォークシンガーが参加するコンサートでは「帰れ」コールを浴びたことは知られているが、それは陽水も同じだったという。
初のミリオンアルバムとなった『氷の世界』(1973年)などに携わった音楽プロデューサー・川瀬泰雄氏が明かす。
「陽水もよく『帰れ』ってやじられていました。たとえば後にRCサクセションを結成する仲井戸麗市がいたバンド『古井戸』が「帰れ」コールが起きると『(舞台に)上がってこいよ』という調子で客と喧嘩になる。それに対して陽水は『帰れ』コールを浴びると、サングラスを下げてじっと声のする方を睨むだけなんですが、あの図体に髪型でボソッとしかしゃべらないから逆に客が怖がって静かになってしまう。そんな感じでしたね(笑)」
もう一つ、当時の陽水を悩ましていたのが、コンサート中のMC問題だった。
「当時、拓郎のコンサートに行くと、歌もさることながらMCのしゃべりがうまくて、もう漫談をやっているんじゃないかというほど観客に受けていた。ところが、陽水はしゃべらない。『おい、もう少ししゃべれよ』と陽水に言うんですが、しゃべれば逆に客席全体が落ち込む雰囲気になってしまう。
それが、あるとき名古屋で陽水や三上寛など4人のシンガーによるコンサートがあり、その告知のモノクロポスターに陰気臭い4人の顔を並んでいたところ、コンサート直前に三上寛がキャンセルになって、顔の上にでっかくバッテンが書かれた。それを陽水と二人で見つけて『もう完全に指名手配犯のポスターだよね』って大笑いしたんです。
その話をステージで陽水がボソッとしゃべったら、客席でクスクス笑いが起こった。それから私がちょっとした面白い出来事なんかをメモしたりして、コンサートの曲の間はこれをしゃべる、あれをしゃべるって決めておくようになったんです。クスクス受けて次の曲へのいい流れができる。陽水にも手ごたえがあったんでしょうね。今コンサートなどでボソッとしゃべるあの感じは、あの時代に確立されたんだと思います」
陽水の強烈な個性は、このようにして生まれた。