近年はあまり聞かなくなった「放送禁止歌」という存在。かつては、“そのメッセージは放送に相応しくない”との判断され、放送されなかった楽曲もある。フォーク・シンガーのなぎら健壱(69才)の放送禁止歌といえば、1973年に発表された『悲惨な戦い』だ。
「これは“戯れ歌”(コミックソング)ですから、一般的な放送禁止歌とは違います。発売されてすぐにラジオの深夜放送から火がついて、テレビやラジオの出演依頼が10本くらいきていたのに、突然『要注意歌謡曲』に指定され、仕事が一気になくなっちゃった」(なぎら・以下同)
「放送禁止歌」の歴史はいまから63年前にさかのぼる。1959(昭和34)年に、日本民間放送連盟(民放連)が「要注意歌謡曲指定制度」を発足させ、「要注意歌謡曲一覧表」という内部通達の文書を作成したのだ。民放各局はこの「要注意歌謡曲」のリストをガイドラインとして、放送するかどうかを判断した。
「要注意歌謡曲」にはランクが3つあり、「A」は放送しない、「B」は歌詞はダメだがメロディーは放送しても大丈夫、「C」は不適切な個所を変えればOKに区分されている。これらに拘束力はなく、あくまでも放送局が自主規制するための基準である。また、「要注意」とされる理由は、「わいせつ」「反社会」「差別」などさまざまだ。
当時、フォークソングには、政治を批判したり、反戦、差別や放送禁止用語が含まれる歌が多くあり、メジャーでの発売が難しかった。そこで、歌手自ら自費出版のレコード会社URC(アングラ・レコード・クラブ)をつくり、会員への通信販売という形でレコードを販売していた。その主なメンバーは、岡林信康、高石ともや、五つの赤い風船、高田渡さんなど。
「先輩たちの曲が発売禁止、要注意曲に指定されていましたから、ある意味ステータスだったことも事実。でも、それを狙ってはいないですよ、狙っていたのは泉谷しげるです(笑い)」