いつかは引退を迎えるスポーツ界ならまだしも、生涯現役も可能な経営の世界において、自ら肩書きを手放す経営者は少ない。だが、一代で「世界のホンダ」を築き上げた本田宗一郎は違った。
元日刊自動車新聞社社長の佃義夫氏(佃モビリティ総研代表)が振り返る。
「本田宗一郎は根っからの技術屋でした。私も何度かお会いしましたが、当時の八重洲の本社ではなく、埼玉県和光市の本田技術研究所にいることがほとんどで、訪ねるといつもナッパ服姿で出てくるんです。経営については『不得手なことはやらん』と言って、副社長で名参謀と言われた藤沢武夫にすべて任せていました」
本田が社長の座を退いたのは1973年、66歳の時。後継者の河島喜好は当時45歳だった。
「退任のきっかけは、藤沢の引退表明でした。河島は1971年にホンダの開発部門である本田技術研究所の社長に就任していたので、本田はすでに河島を後継者にと考えていたのでしょう。その意を酌んだ藤沢が自身の引退を本田に持ちかけると、本田は『俺は藤沢武夫あっての社長だ。副社長が辞めるなら、俺も一緒に辞めるよ』と応じたのです」(同前)
共に引退を決意した時、本田が藤沢に「幸せだったな」と言うと藤沢も「本当に幸せでした。心からお礼を言います」と応じた。すると本田は「俺も礼を言うよ。良い人生だったな」と言葉を継いだという。
社長退任後、本田は本田技術研究所で自動車開発に携わったが、あくまでも“一エンジニア”としてであり、ホンダの経営には一切口出ししなかった。その精神は今も受け継がれていると佃氏は語る。
「本田にホンダイズムを叩き込まれてきた河島も、10年社長を務めた後、55歳でスパッと社長を辞めた。ホンダでは今年4月に社長交代がありましたが、退任した八郷隆弘は取締役にも相談役にもつかず、経営から離れた。本田のDNAが今でもホンダに残っている証左かもしれません」(同前)
※週刊ポスト2021年5月28日号