オールスター9者連続奪三振などの大記録を打ち立てた後、“クローザー”に転身した江夏豊(72)。そんな江夏には、後世に語り継がれるべき復活劇があった。
阪神の不動のエースとして君臨した江夏が、南海ホークスにトレードされたのは、1976年1月のことだった。
「当時肩痛、血行障害などのケガに加え、心臓にも不安を抱えていた。剛球とスタミナが衰え、阪神では当たり前だった先発・完投は難しい。それでもボール半個をベースにかけて投げるようなコントロールは健在でした」(元デイリースポーツ編集局長でジャーナリストの平井隆司氏)
江夏の抜群のコントロールに目をつけ、リリーフとして起用したのが南海の監督、野村克也だった。通算盗塁数2位、シーズン盗塁成功率の日本記録を持つ「南海の核弾頭」こと広瀬叔功が語る。
「当時はまだリリーフ投手の地位が低かったので、江夏をリリーフ専用で使うと聞いた時は本当に驚いた。とにかくコントロールが良くて、ポンポンとリズム良く抑えてくれるから、後ろで守っていても楽だった。ノムやんが77年に解任され、ワシが後任監督になったが、江夏は『野村監督が辞めるなら』と志願して広島にトレードされた。江夏が抜けた後は戦力的には大変だった」
“一匹狼”のイメージが強い江夏だが、南海の三塁手だった藤原満は意外な側面を語る。
「江夏が野村さんからリリーフを言い渡された時に、彼が真っ先に心配したのはそれまでリリーフだった佐藤ミチ(道郎)の処遇だった。ミチが先発に転向するということで、江夏は快諾したらしい。そういう配慮ができる男なんです」
江夏は昨年、野村監督の訃報に際し、本誌・週刊ポストでこう弔意を表した。
「色々あったけど、自分にとってはやっぱり、『恩人』だね。それは間違いない。自分の野球人生、“残りの半分”はあの人が新しい道を作ってくれた。それはもう感謝の一言しかないよ」(2020年3月13日号)
※週刊ポスト2021年6月4日号