【書評】『恋する日本史』「日本歴史」編集委員会・編/吉川弘文館/2200円
【評者】山内昌之(神田外語大学客員教授)
山県有朋らは江戸占領後に新吉原で遊んだ時、野暮なことに、彰義隊贔屓の芸者といざこざを起こした。新政府軍を嫌い旧幕府や彰義隊の男たちを好いた江戸の遊女や芸者の気っぷは今に語り継がれている。箱石大氏の「勤王芸者と徳川贔屓の花魁」は、22の論文全体の魅力を代弁する佳品である。
本書を読めば、現代風に言うと、恋と不倫はぎりぎりで重なることに気がつく。不義密通が王朝文学として美化されるのは、日本の宮廷公家社会に独特の文化であり、現代社会にもその名ごりがみられなくもない。江戸時代に入っても幕府の厳しい禁裏統制をかわして密通は絶えなかった。
松澤克行氏が紹介するのは、明和二年(一七六五)の有栖川宮家で発覚した15歳の近習と40歳を越えた女房・花小路との密通である。
これほど年の差を忘れた密事も珍しい。一度追放されて常磐木と改名した女は、3か月ほどで病気がちの宮の看護で召し戻され、玉野井、ついで菖蒲小路と名乗って再勤した。しかし2年たつと花小路は一回り年下の筆頭諸大夫と関係を持ち、また外に出される。驚くのは、4か月後にまた京都に戻り、まもなく宮のもとに帰ることだ。性懲りがないのである。
花小路を戻したのは、彼女と宮との間にできた親王と女王の意志による。母がいないと父が可哀そうだという親孝行は見上げたものだ。家臣と不義を重ねた母への情を父の面子よりも重視したわけだ。
花小路の密通は、この2回だけでなく、他にも4、5回あったというから、恋多き女というにふさわしい。しかし有栖川宮はあくまでも偉いのだ。自分が恋している女なのだから、中のことは好きにさせてくれと言わんばかりに、仕える諸大夫ら家臣が花小路排斥を宮に迫っても、彼らを「敵」呼ばわりして受け入れない。
寸時も彼女と離れたくなく、57歳で死ぬまで恋をしおおせた。花小路は仏門に入って93歳の天寿をまっとうした。ひたすら宮の菩提を弔ったのか、新しい出入があったのかまでは、松澤氏も書いていない。
※週刊ポスト2021年6月4日号