日本が戦後復興、高度成長と、発展を続けるなか、その一翼を担った超大物経営者に、不屈の精神での復活劇があった。
松下電器(現パナソニック)を一代で築き上げ、「経営の神様」と讃えられる松下幸之助にも、「日本一の滞納王」などと嘲笑された時代があった。
終戦を迎え、再スタートを切ろうとしていた矢先のこと。財閥指定を受けた松下電器は、公職追放、賠償工場指定、持株会社指定など7つの制限によって、会社経営ができない状況に追い込まれてしまったのだ。
松下側は創業20年あまりの会社が財閥指定されたことに抗議し、労働組合も「社長の追放は困る」と、幸之助の公職追放からの復帰をGHQに嘆願した。幸之助の秘書を務め、PHP研究所社長などを歴任した元参院議員の江口克彦氏が語る。
「幸之助は『あの時は苦しかった』とは決して言わない人で、新聞記者や雑誌などの質問にもいつも『苦労したことはありませんでしたなぁ』と答えていた。しかし、終戦直後の5年ほどは本当に厳しかったはずです。
当時の松下電器の資本金は4630万円で、借り入れは約4億円。他に手形や未払いなどの債務が3億円あった。当然、本来なら倒産していた状態です。社員の給料が払えないので分割払いにし、賞与もゼロ。幸之助は『会社を守り抜きたい』『心ひとつにして』と訴えましたが、多くの社員が会社から離れ、1万5000人が3500人にまで減りました」
幸之助自身の生活も困窮を極めていた。資産をすべて凍結され、生活費も制限されていたため、知人から生活費を借りなければならない始末。1949年には多額の物品税を滞納してしまい、新聞やラジオで「日本一の滞納王」と報じられた。
「当時、周囲にいた人たちが『首を吊るんじゃないか』と囁いていたほどで、『サントリーから貰ったウイスキーを、飲めないのに飲んでいる』という話も聞きました」(同前)