セ・パ交流戦の直前というタイミングで、巨人が異例とも言えるコーチ5人の配置転換を行なった。相川亮二・一軍バッテリーコーチが三軍に回り、実松一成・二軍バッテリーコーチを一軍に昇格。加藤健・三軍バッテリーコーチが二軍担当となるなどバッテリー部門は“総入れ替え”となった。原辰徳・監督のもとでは、昨年8月にも二岡智宏・三軍総合コーチが三軍監督となり、井上真二・三軍監督がファームディレクターとなった例もある。現代野球においてコーチの役割が年々、細分化されているとはいえ、こうしたシーズン中の配置転換はかつては見られなかったことだ。
黄金期の巨人ではコーチと選手の間に強固な“師弟関係”があり、その関係性のもとで培われた力がチームを下支えした。その代表例が1965年からのV9時代の礎となった荒川博・一軍打撃コーチの「荒川道場」だった。
V9時代の巨人で、小柄ながらも闘志溢れるプレーで「豆タンク」の愛称で親しまれた黒江透修氏はこう振り返る。
「僕は3年目(1966年)に遊撃手のレギュラーになれましたが、すべて荒川コーチのおかげです。前年の時点で、マスコミの前で“来年は黒江を2番に定着させる”と言ってくれた話を耳にして、その年の12月1日から荒川道場に通うようになりました。当時は(毎日オリオンズ時代から荒川氏の後輩だった)榎本喜八さんが一番弟子で、二番弟子がワンちゃん(王貞治)。オフに荒川コーチの前で練習をしていると、途中で榎本さんがやってきてバットを振るのですが、これがとてつもなく速かった。見るだけでも勉強になりました。ワンちゃんのスイングも正座しながら見ましたが、レギュラーは違うと思いましたね。
それでも1か月、荒川コーチのもとに通い詰めて、少しは成果があったと思ったところで正月になった。鹿児島の実家に帰ろうとしたら、榎本さんから“九州に帰る? レギュラーを取りたくないのか”と言われて、帰省をやめて正月も練習した。荒川さんの船に乗った以上は、最後まで乗ってやろうと必死でしたね」
当時の川上哲治・監督から指示を受けた荒川氏が、王氏と二人三脚で「一本足打法」の習得に励み、“世界の王”を育て上げたことはあまりに有名なエピソードだ。黒江氏が続ける。
「荒川コーチのところに行けば、必ずうまくなるという思いがあった。榎本さんやワンちゃんが厳しい練習をするのを見て、自分はもっとやらないといけないと思いましたよ。2人の実績があるから、荒川コーチのもとで頑張ればうまくなるという確信が持てました」