日本が明るく照らされていた昭和の時代、「増税なき財政再建」を掲げ、族議員の抵抗を排し、国鉄・専売公社・電電公社の民営化をはじめとする大胆な行政改革の先頭に立ったのが石川島播磨重工業(現・IHI)、東芝、そして経団連などのトップを歴任した土光敏夫だった。
鈴木善幸・首相に乞われて彼が率いた「第二次臨時行政調査会」(1981~1983年)は“土光臨調”と呼ばれ、巨大な既得権に斬り込んだ。
経団連で秘書室長を務めた居林次雄氏が土光臨調の舞台裏を明かす。
「時は第二次オイルショックのさなかで、石油価格は急騰。庶民の生活は本当に大変だった。それを打開すべく担ぎ出されたのが土光さんだった。行政管理庁長官(当時)の中曽根康弘さんから打診された時、土光さんは断わるつもりで『証文に総理が判を押すならやる』と伝えた。そのひとつめの項目が『増税なき財政再建』だった。無理な話です。ところが時の鈴木首相が判をついてしまったので、引き受けざるを得なくなった」
土光は当時すでに84歳。不可能と思われた行政改革を成し得たのは、“人柄”あってのことだった。
「ボロ家に住み、家には暖房もなく、新聞記者が冬に訪ねると風邪を引いて帰ってくる。いつもよれよれの背広を着て、朝6時半に家を出て7時半には出勤していた」(同前)
周囲からは「質素ぶっている」とも見られており、実は居林氏も最初はそう思っていたという。だが、違った。
「経団連の会長時代に知ったのですが、私学振興財団の寄付者の筆頭が土光さんだったのです。毎月10万円くらいを生活費として、あとはそっくり寄付していた計算になる。私は行政改革をやるには土光さんの清貧ぶりを広く知ってもらうほうがいいと思い、NHKの記者に『土光さんがメザシを食うから撮ったらどうか』と話しました」(同前)