新型コロナウイルスの対応をめぐり、日本は都市封鎖などの強い措置をとることができなかった。その理由について「日本国憲法が邪魔をしているからだ」と主張する人たちがいるが、果たしてそれは「失敗の本質」だと言えるのだろうか? 経営コンサルタントの大前研一氏が、憲法改正のあり方について考える。
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憲法改正の手続きを定めた国民投票法の改正案が、今国会で成立する見通しとなった(本稿執筆時点)。
改正案は、公職選挙法の規定に合わせて、改憲手続きに関する国民投票にも、駅や大型商業施設などに共通投票所を設置するといった7項目を適用するというものだ。これが成立すれば、自民党はさっそく改憲論議に着手したい考えだと報じられているが、何をどう改正するのかという具体的な議論はまだ進んでいない。
とりあえず今後の争点は、懸案の第9条に加え、憲法に緊急事態条項を設けるかどうかになると思われる。とくに新型コロナウイルスの感染拡大が止まらない中で、パンデミック(感染症の世界的大流行)を含む大災害が起きた時は政府の権限を一時的に強化して欧米のようにロックダウンなどの指示・命令を可能にする緊急事態条項が注目されている。最近の世論調査でも、同条項を創設することについて、「賛成」の割合が増える傾向にある。
だが、そういう雰囲気の中で改憲議論を始めると、危機対応にばかり焦点が当たり、あっさり成立してしまうかもしれない。その結果、政府は同条項を他の問題に対しても野放図に使い始め、まるで戦前・戦中の「国家総動員法(※1938年に公布・制定された法律。日中戦争の長期化による国家総力戦の遂行のため、国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できると規定した)」に通じるような経済統制や私権の制限にまで踏み込みかねない、という危惧がある。
大災害に対応するために政府の権限を強化すべきという主張は正論のようだが、新型コロナ禍が終息していない状況で緊急事態条項の議論を始めるのは、動機が不純で危険だと私は思う。
そもそも現行法制の下でも、厚生労働省が指導力を発揮し、世界の大学や研究機関、企業などと情報交換しながら最善策を講じていれば、もっと迅速かつ適切に感染を抑制してワクチン接種体制を作ることはできたはずである。なぜそれができなかったのか、という反省も検証もしないで、ただ緊急事態条項を設ければ強力で効果的な対応ができるようになると考えるのは間違いだ。まず「失敗の本質」を究明すべきである。
改憲すなら行政にメスを
そもそも、厚労省がありながら、なぜ河野ワクチン接種推進担当相や西村康稔新型コロナウイルス対策担当相が必要なのか? 結局、新たな問題が起きるたびにその担当相や“看板庁”を設置して「やってる感」を出しているにすぎない。
新型コロナ対策も、本来なら厚労省が責任をもってやればよいのに、2人の担当相が間に入っていることで、行政に二重三重の無駄・非効率が生じている。屋上屋を架すならまだしも、横にちょこんと張り出したような建て付けで、役割分担も責任の所在も不明確だ。
現在の統治機構は「橋本行革」で複数の省庁を束ねて役所の数を減らしたと言いながら、実際は名ばかり改革で単なる役所の引っ越しにすぎず、役人の数は変わらなかった。厚労省(厚生省+労働省)、国土交通省(国土省+運輸省)、総務省(自治省+郵政省+総務庁)など、一つの役所の図体が大きくなっただけである。