徳川慶喜についての一般的な認識は、「徳川15代目、最後の将軍」「大政奉還をした人」の2つではないだろうか。それを思うと、放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』で草なぎ剛が好演する徳川慶喜は、幼少時から英邁と評判で決断力がある意外な姿に見えているかもしれない。ただ一方で、鳥羽伏見の戦いで敵前逃亡した「臆病者」という誹りを受け、歴史的には評価の分かれる人物だった。大政奉還という歴史の転換点をつくりながら、なぜ彼は敵役になり果てたのか、歴史学者の家近良樹氏が解説する。
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安政5年(1858年)に幕府がアメリカをはじめ5か国と結んだ通商条約は朝廷の勅許を得られていなかった。慶応元年(1865年)10月4日、開国派の慶喜と攘夷派の公卿が出席した朝議(朝廷での評議)は懸案だったその条約勅許問題を巡って紛糾し、夜も更けた。そこで公卿たちが散会しようとすると、慶喜がこう畳みかけて凄んだ。
「このままでは許さない。勅許を得られないなら自分は自決する。その場合、自分の家臣が何をしでかすかわからない」
その恫喝に公卿たちは震え上がり、ついに条約勅許が得られることになった。
続く重要課題となった兵庫開港問題でも慶応3年5月の朝議で熱弁を振るい、勅許を獲得。元服前から英邁を謳われていた上に、幕末の政治の中心・京都で政治的経験を積み、権謀術数にも長けていた彼の能力は突出していた。
「独公」「独橋」「独木公」と仇名されたように、慶喜は臣下や周囲に相談することなく独断で重要な決断を下す孤高な将軍だった。それゆえに決断できたのが、幕末政治史上最大の出来事といえる大政奉還である。慶喜という個性でなければできなかっただろう。
そんな慶喜に不思議なほど欠けていたものがあった。幕臣や民衆への関心、配慮、思いやりといったものが見られなかったのである。
幕府から朝廷に政治を返上すれば、当然のことながら多くの幕臣が失職する。だが大政奉還を決断するにあたり、慶喜が幕臣の気持ちや生活のことで思い悩んだり、配慮したりした痕跡は見つからない。
民衆の反感を招いた「征夷しない大将軍」
鳥羽・伏見の戦いにおける「敵前逃亡」は新政府軍と戦うことで朝敵となる事態を避けるためだった、と解釈するのが妥当だろう。江戸に着いた慶喜が隠居の意思を表明し、実際に謹慎生活を始めたのも同じ理由からだ。
だが「敵前逃亡」が慶喜の評価を大きく下げたことは事実だ。それによって多くの部下を見殺しにしたことは、一軍の将として許される行為ではなかった。それに謹慎は新政府への恭順を示すことにはなったが、旧幕臣の慰撫という大切な役割を事実上放棄したことにもなる。
戊辰戦争終結直後、徳川宗家は70万石を与えられ静岡藩となった(相続者は徳川家達)。800万石からの転落である。かつての臣下は生活に困窮したが、彼らが訪ねてきても慶喜は会おうとせず、「貴人、情けを知らず」と非難された。