NHK大河ドラマ『青天を衝け』では、北大路欣也が演じる徳川家康が解説役のようにあらわれて「こんばんは、徳川家康です」と登場し、徳川幕府が終わりに向かっているのだと解説を加える演出が話題を集めた。家康が見守るなか、最後の将軍・徳川慶喜をドラマで草なぎ剛が好演しているが、彼は将軍でなくなった後、いったいどんな生涯を送ったのか。
鳥羽伏見の戦いで敗れ、筋金入りの尊皇派でありながら慶喜は朝敵となってしまった。挙兵の誘いにのることなく謹慎生活を続けたが、翌明治2年(1869年)に戊辰戦争が終結すると謹慎が解除されたが、慶喜は政治の舞台に復帰しなかったばかりか、一切仕事に就かなかった(明治35年に公爵に叙せられ、8年間貴族院議員を続けたが、実質的な活動はしていない)。まだ30代半ばだった慶喜が死ぬまで没入したのは、趣味の世界である。
『その後の慶喜』(著・家近良樹/ちくま文庫)によれば、狩猟、鷹狩り、投網、鵜飼い、囲碁、将棋、謡い、能、小鼓、洋画、刺繍、玉突き、写真……と趣味は驚くほど多岐にわたった。講釈師や軽業師や手品師を家に呼ぶこともあった。新しもの好きで、人力車、自転車、電話、蓄音機、自動車などが登場すると、早速購入。趣味を堪能して30年近く住んだ静岡では「ケイキさん」と呼ばれて親しまれた。
あるときこんなことがあった。趣味の鳥撃ちに熱中するあまり畑の中を走り回って作物を踏み荒し、農民から猛烈に抗議された。だが、お付きの者に作物の買い上げを指示するだけでまったく謝らず、農民の怒りを逆撫でした。「下々の者」の思いへの鈍感さは相変わらずだった。
ある意味で精を出した仕事と言えば、子作りだ。明治になってから2人の側室との間に10男11女の計21人の子供をもうけた。
慶喜は明治31年(1898年)に初めて天皇・皇后に謁見し、「逆賊」の汚名が晴れた。それ以前は静岡にお召し列車が停車しても、送迎の列に加わることは事実上禁止されていた。そんなとき彼は列車が通過する時刻に合わせ、紋付き、羽織袴で家の門の前に立ち、列車の音が聞こえなくなるまで遥拝していたという。
徳川家の当主は菩提寺である芝の増上寺か上野の寛永寺に葬られるが(家康、家光は例外)、慶喜は皇室への配慮から神葬を望み、谷中の墓地に埋葬された。その尊皇感情は、死の間際においても発揮されたのである。
取材・文/鈴木洋史
※週刊ポスト2021年6月18・25日号