【書評】『硝子戸のうちそと』/半藤末利子・著/講談社/1870円
【評者】平山周吉(雑文家)
一月に九十歳で亡くなった「昭和史の語り部」半藤一利さんを特集したNHKの番組の最後で、半藤さんの「遺言」が紹介された。
「『墨子』を読みなさい」
「日本人はそんなに悪くない」
安らかな死の床で、その言葉を聞いたのが半藤末利子夫人だった。末利子夫人のエッセイ集『硝子戸のうちそと』の後半は「夫を送る」となっていて、大腿骨骨折事故から死までの一年半が克明に描かれ、感動的である。
本のタイトルからわかるように、末利子夫人は「文豪」夏目漱石の孫、ということは「女傑」鏡子夫人の孫でもある。歯に衣着せないお嬢様気質の文章は、「文豪」と「女傑」が適度にブレンドされ、巧まざるユーモアに溢れている。漱石ドラマや関連番組にも堂々と文句をつける女「坊っちゃん」だ。
その態度はわが夫ドノに対しても変わらない。酒に酔っての帰宅途中での骨折は二度目だったので、「吾が亭主は、大バカヤローのコンコンチキである」と悪態をつく。その日は「夜十時ごろ、比較的早くバカ男は帰宅した」と、「歴史探偵」も自宅では「バカ男」扱いなのだ。これは一種の愛情表現ではあるのだが。リハビリに励む夫を見て妻は思う。
「『酒がいちばん好き』だの『酒がいまいちばん飲みたい』とホザくから、この男は罰が当たったのである。『いちばん好きなのは妻です』と言っておけばよかったのに」
死を見届けた後には、「彼は夫としては優等生であった」と掌を返して(?)感謝している。頑張り続けた半藤さんも最後の五日間は気力が衰えて、死を自覚する。そして夜中に夫人に声をかけて伝えたのがあの「遺言」だった。
ベッドサイドに置かれていた自著『墨子よみがえる』は先ごろ、平凡社ライブラリーで復刊された。「非攻」と「兼愛」の思想を、半藤さんは単なる理想主義ではなく、リアリズムと拮抗する「奮闘努力」の実践として描いている。もうひとつの「遺言」は微妙に違う。本書では「そんなに」がない。「日本人は悪くないんだよ」である。
※週刊ポスト2021年6月18・25日号