【書評】『政治家の責任 政治・官僚・メディアを考える』/老川祥一・著/藤原書店/2860円
【評者】山内昌之(神田外語大学客員教授)
「歩いた家の数しか、票は出ない。握った手の数しか、票は出ない」。選挙の神様、田中角栄の名言である。他方、今の小選挙区制度では、クイズ脳並の知識や外資系企業の経験があれば、人間の洞察力が鈍い若者でも国会議員になれる。候補者がどぶ板を這いまわる地道な活動は必要ないのだろう。
与野党問わず、若い議員を見ていると、何のために議員になったのか不思議だ。このレベルで議員になれる現状と定員の多さは驚くばかりだ。著者は、有権者一人ひとりと握手をして言葉を交わし、一般社会の生活感を実感する体験を強調する。生活者の苦しみを知らずに何の政治家かと警告を発する。
老川氏の新著で教えられたのは、政治家の水準低下にもまして、かつては政策力と自尊心を誇った官僚の劣化である。行政文書を政治家のために廃棄し、パソコン記録を抹消するのは驚きだ。地方採用で地道に仕事に励む公務員を自殺に追い込むなど、無責任の体系と定義するだけではすまない。
意思決定の責任は政治家にあり、政治の命令を忠実に執行する義務は官僚にあると著者は語る。しかし、それも政治家が正しい命令を行うから成り立つ話である。そこにウソや虚偽のないことが前提なのだ。関係職員の処分に無関心を装い、はては自殺者の捨て身の告発にも頬かぶりをするようでは、日本の民主主義政治の将来も暗い。
著者が政治部記者を目指した時、文学書を読んでいた著者は入社試験で訝しがられた。著者はこう答えた。政治は人間の行為、情熱や欲望や権謀術数など生々しい人間的要素の凝縮された行為だから、文学書に表現された人間像を学ぶことが大事だというのだ。今時の22歳の学生、30代の議員には真似もできない答えだ。
私も政治劣化の原因は、学生が文学を読まないことも大きいと考えてきた。ドストエフスキーも魯迅も小林多喜二も読まずに、人間と政治との関係を考える若者が育つのだろうか。著者の感性は、現代政治の不毛性と議員の魅力枯渇の背景を鋭く衝いている。
※週刊ポスト2021年7月9日号