プロ野球・ヤクルト対阪神戦(7月6日・神宮球場)で勃発した「サイン盗み」問題。球史を紐解けばサイン盗みが問題になったことは何度もあり、サイン盗みに対抗するため選手たちは様々な対策を講じてきた。
阪急、阪神、近鉄で22年間ユニフォームを着続け、通算勝利数歴代2位・350勝投手の米田哲也氏が語る。
「当時は、二塁走者がキャッチャーのサインを覗くのも技術の一つという時代でしたが、それを阻止するために、投手からサインを出すようにした。何番目かに触った体の部分を球種のサインとして投げました。
カネさん(金田正一)は口を開けたらストレート、閉じたらカーブだったそうです。サイン盗みを阻止するのもバッテリーの仕事でした」
マサカリ投法で知られる元ロッテの村田兆治氏は、「当時は投球のテンポが早いと言われていましたが、それはサイン盗みに対抗すべくノーサインで投げていたからです」と語る。
“エースのジョー”こと元巨人の城之内邦雄氏は何と、捕手泣かせの対策を採用していた。
「僕はサインと違う球を投げたりもしました。キャッチャーは森(祇晶)さんだったが、真っ直ぐのサインでシュートを投げても、森さんは簡単に受けてくれた。後逸しないキャッチング技術はさすがでしたね」
サイン盗みが仇となった事例もある。野球評論家の関本四十四氏が語る。
「1970年に近鉄の佐々木宏一郎さんが、南海を相手に史上11人目の完全試合を達成しましたが、やられた南海が最初から球種を全て知っていたというのは球界で有名な話です。球種をわかっているとボール球に手を出してしまい、凡退を重ねてしまうこともあるんです」
サイン盗みの問題は長らく尾を引いた。1984年に日本野球機構の下田武三コミッショナーがセ・パ両リーグにスパイ行為の禁止を要望し、1992年にはセ・リーグの川島広守会長が会長通達を出した。しかし、それでもサイン盗みをめぐる攻防は続いた。