数々のスター歌手を手がけた音楽プロデューサー、酒井政利さんが7月16日、心不全で亡くなった(享年85)。本誌『週刊ポスト』は今年3月、「昭和のライバル」特集(4月16・23日号)で山口百恵と桜田淳子を取り上げた際、酒井さんに話を聞いていた。
3月29日、行きつけだという都内の喫茶店に現われた酒井さんは、アイスコーヒーを飲みながら30分以上にわたって山口百恵のデビュー当時について語ってくれた。記憶は鮮明で顔色も良かった。酒井さんのご冥福をお祈りしつつ、当時のインタビューを再録する。
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日本のアイドルの先駆けとなる南沙織さんをプロデュースした後、1972年12月、日本テレビのオーディション番組(『スター誕生!』)に山口百恵という子が出場するので番組を見に来てほしいと番組の名プロデューサーだった池田文雄さんに誘われて見に行ったのが最初ですね。彼女は当時13歳で、フォークソングの『回転木馬』を歌っていたんです。それまでまともな歌唱レッスンを受けていないせいか音域が狭いのが難点かなと思いました。しかし、桜田淳子のような天真爛漫な明るさはないけれど和風な顔立ちで不思議な表情を見せる。磨けば輝くのではないかという未知数の可能性を感じさせる雰囲気はありましたね。
その当時、『スター誕生!』で最多となる25社がプラカードを挙げ、まさに彗星のごとく現われたのが桜田さんで、すでにデビューして注目の的になっていました。同じくこの番組でデビューした森昌子さんも『先生』が大ヒットしていて、その頃に出てきたのが山口百恵なんです。プロデューサーの池田さんはなんとかその年の秋までに百恵をデビューさせたいと急いでいました。今思えば、すでに桜田、森に続く百恵を「中3トリオ」で売り出したいという考えがあったのでしょう。
デビュー曲『としごろ』は地味でしたが、2曲目の『青い果実』がヒットして、彼女は桜田淳子、森昌子と同じ場所に立つことになりました。「中3トリオ」という設定があったことは、山口百恵にはラッキーなことだったと思います。私の中には、森昌子が大地、桜田淳子が大空、そして山口百恵は大海というイメージを膨らませていたんです。13~14歳の少女にはやや過激な歌詞で「性典ソング」などといわれることもありますが、私の中では少女から大人へと成長していく過程を見せようという思いがありました。それは桜田淳子のあの明るい空のようなイメージがあったからこそ、その逆を生み出せたんだと思います。