オリンピックでもマラソンは日本のお家芸のひとつだが、日本マラソン界のレジェンドのなかにはオリンピックのメダルに縁がなかった選手も多い。君原健二さんらと競い、今は78歳になった宇佐美彰朗さんもその一人だ。マラソンでの優勝11回、リタイアなし、日本記録も打ち立て、メキシコシティー(1968年)、ミュンヘン(1972年)、モントリオール(1976年)と五輪3大会に出場しながら、結果は9位、12位、32位と振るわなかった。特にミュンヘンでは、2年前に日本記録を出し、プレ・オリンピック大会でも優勝していたため、金メダル候補として世界から注目されたが、前半を果敢に飛ばしてレースを引っ張りながら後半失速して、メディアからも「飛ばしすぎた」と批判された。
引退後は後進の指導にあたり、東海大学名誉教授も務める宇佐美さんに、改めて「ミュンヘンの暴走」について聞いた。
「あのレースで先頭に出たのは、別に無理して飛び出しわけじゃないんですよ。余力があったから、もう少しペースを上げようと思っただけなんですが、走りながら、“なにやってんだ!”という批判も出るかもなあ、と冷静に考えていましたね。
あの時に結果を出せなかったのは、ペース配分の問題ではなく疲労がうまく抜けなかったことが影響したのだと思います。現地入りしてから原因不明で少しずつ体調が落ちていったのですが、たぶん使い慣れないマットレスで寝ていたことが良くなかったのだと思っています」
そんな宇佐美さんはランナーとしては異色の経歴の持ち主だった。中学時代はバスケットボール、高校では軟式テニスに没頭した。日本大学で陸上を始めたのは、今では考え付かないようなきっかけだった。
「1年生の時、商品の大学ノートが欲しい一心で出場した学部対抗運動会の1500メートル走で優勝しました(笑)。マラソンはただ走るだけの単調なスポーツですが、その奥深さに目覚めたのはこの頃です。いざやってみると、自分の体の変化や相手との駆け引きが奥深くて興味を持ちました」
その後は陸上部に入り、箱根駅伝にも3年連続で出場して一流ランナーの仲間入りを果たしたが、オリンピック出場は意識もしていなかったという。
「当時は、ただこの試合、次の試合と走っていたので、オリンピックの代表になるなんて考えていませんでした。もともとテニスをやっていたような人間です。箱根を走っただけでオリンピックに出られるなんて思っていませんでした」