日本が戦争に明け暮れていた頃。1930年前後に生まれたある4人の青年の話をしよう。日本は敗戦し、国土は焼け野原になって全てを失った。思春期に終戦を迎えた彼らは、必死に生き抜き、復興を支える立役者となった。
千玄室(げんしつ)さん:1923年京都府生まれ、終戦時22才。茶道裏千家15代家元となり、茶道文化の発展と世界平和に寄与した。
林四郎さん:1926年長野県生まれ、終戦時19才。出版社に入社し、スクープや生活情報など週刊誌の隆盛を支えた。
盛田正明さん:1927年愛知県生まれ、終戦時18才。ソニーの黎明期から「世界のソニー」になるまで副社長として発展を担った。
宮城淳さん:1931年東京都生まれ、終戦時13才。1955年全米オープンテニスダブルスで優勝し、日本中を沸かせた。
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千玄室さんは、同志社大学2年生の時、学徒出陣で海軍予備学生となった。入隊試験に合格し、訓練が始まると、本来なら1年半かける訓練を10か月で詰め込まれた。毎日毎日、「貴様らは死にに来たんだ」と繰り返し上官から言われる。そんな「思い出すのも嫌なほど」過酷な訓練に明け暮れた。
1945年4月になると特別攻撃隊の編成があった。200名くらいいた二等飛行兵曹に紙切れが配られ、そこには「熱望」「希望」「否」と書いてある。「特別攻撃隊に志願するか」という質問に対する返答を書けという。千さんは「熱望」に丸をして提出した。
そこからは特攻の特別訓練だ。1500メートルくらいの高さから、一気に降下して突っ込んでいく。圧がかかって失神寸前になるが、地表200~300メートル手前で機首を上げないと、地上に突っ込んでしまう。訓練で亡くなった人も多かった。
「優秀な大学生がどんどん死んでいきました。私たち第14期飛行科予備学生の仲間は400人近くが靖国神社に祀られています」
千利休から400年続く茶道裏千家の嫡男として厳しく育てられた千さん。特攻への現実味が増していく日々の中、訓練の後に、同僚に請われてお茶を点てたこともあった。
「もし俺が生きて帰ったら、お前の茶室で飲ませてくれや」と同僚の少尉に言われたが、「うちで飲ませることはできても、俺ももういない、お前も死ぬんだ」と答えた千さん。「利休様がおっしゃった一期一会とはこのことだ」と感じたという。そしてその少尉は仲間で最初に突っ込んでいった。