東京五輪開会式のオープニングシーンで、真っ暗闇のオリンピックスタジアムに登場した白いスポーツウエアの女性を覚えているだろうか。彼女の名前は津端ありさ。東京五輪を目指した現役のアマチュアボクサーだ。
「なぜ私が選ばれたのか、今も分かりません。開会式の翌日はみんなに『どうして言ってくれなかったの』と問い詰められました(笑)。私の周りで知っていたのは、事前取材を受けてもらうために伝えた両親だけです。その時でさえ用意された誓約書にサインしてもらいました」(津端)
今年6月の世界最終予選で五輪への切符を目指す予定だったが、コロナ禍で2月に中止が決定。戦わずして夢破れた悲運のアスリートだ。普段は看護師として働いており、コロナ禍で開催された五輪を象徴するアスリートとして声がかかったのだろう。さらに父は日本人、母はタヒチ人というのも、大会のテーマである「多様性」と合致する。
「キャスティング担当の方から話をいただいたのは4月でした。ちょうどロシアで開催される大会の前で、ボクシングに集中したかったので、詳細は帰国後に聞きました」
彼女はたったひとりで練習に励むアスリートを演じた。最初は黙々とランニングマシンを走っていたが、一度立ち止まり、再び走り始める。演技指導はなかったが、自分なりの思いを演技に込めた。
「五輪を目指して淡々とトレーニングに励んでいた日々から、1年の延期が決まり誰とも練習できないまま、本当に開催されるのか分からない葛藤を抱えた日々へ。ラストチャンスがなくなり、それでも応援してくれる人のためにも前を向く。そんな自分を重ね合わせました」
オリンピアンとなることはできなくとも、開会式の舞台には立てた。だが、余計に五輪のリングに立ちたい想いは強くなった。2月以降、ぼやけていた未来がはっきりと思い描けるようになった。
「パリ五輪を目指します」
3年後の開会式では、日本代表選手団として入場行進する彼女がいるかもしれない。
取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター)
※週刊ポスト2021年8月20日号