患者になってみて、初めて知り、感じられることがある──。心房細動の治療で入院した、諏訪中央病院名誉院長の鎌田實医師が、「老い」と「死」について改めて考えた。
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ホルター心電図を着け、24時間の不整脈の状態を調べた。その結果をみた主治医が、慌てて電話をかけてきた。夜間の睡眠中に6秒間、心停止しているというのだ。
心房細動による脳梗塞予防のため、アブレーション(電気的焼灼術)を受けたが、すっぱり改善とは言えない状態が続いている。主治医は、念のためペースメーカーを入れることを考えたほうがいいと言う。
確かに、服薬治療をしているのに、4~5秒の心停止がある場合はペースメーカーも検討される。だが、ぼくは、現時点でのペースメーカーは断った。
それにしても、「6秒間の心停止」というのは、自分でも少し驚いた。そのままこの世とオサラバということも、可能性は低いが、無きにしもあらずである。
しかし、ビビっていたら、何もできない。大事をとって動かないでいたら心房細動の発作は起こりにくいが、筋肉は減り、老化が進んでしまう。長期的にみれば、マイナスのほうが大きくなってしまうだろう。
だから、主治医には「そのまま心臓が止まったとしても、先生を責めないよ。家族にも、ぼくの覚悟はちゃんと伝えているから大丈夫。生きている間はピンピンしていたい。生きる長さにはこだわっていない」と伝えた。
主治医はわかりました、と納得してくれた。
「死」の覚悟より難しい「老い」の覚悟
「6秒間の心停止」にもあまり動揺せず、楽観的に捉えられたのは、以前から「死」を覚悟しているからだろう。
思い出すのは、脚本家の橋田壽賀子さんのことだ。4年ほど前、月刊「文藝春秋」で、安楽死や尊厳死について対談をした。彼女は認知症になったら安楽死したいと発言し、物議をかもしていた。
それに対して、ぼくはこんなふうに答えた。認知症はいろんな段階があり、症状と環境によっては普通に生活できることも多い。どの段階の認知症になったら安楽死がしたいのか判断が難しいのではないか、と。
そもそも日本では、安楽死は認められていないし、医師としてはとうてい受け入れられない。けれど、橋田さんの気持ちはよくわかった。「自分らしさ」を失ってまで、無理して生きたくないということなのだ。「死」の覚悟よりも、自分の一部を一つひとつ失っていく「老い」の覚悟のほうがはるかに難しいのだ。そして、「死」の覚悟がなければ、「老い」を思い切って生きる覚悟も生まれない。