2005年以来のリーグ優勝を目指し、前半戦をセ・リーグ首位で折り返した阪神。チームをリーグ優勝に導いたOBの中西清起氏、広澤克実氏、八木裕氏の3人が、後半戦について語る。ここでは投手陣について語った箇所を紹介しよう。【記事全4本の2本目】
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──五輪で1か月の中断があった影響は?
八木:調子を崩していた選手は助かったと思っているはずです。タイガースは打線の調子が落ちていたので、この中断をプラスに考えていいんじゃないでしょうか。
中西:投手陣はどうかな。リリーフ陣では守護神・スアレスにつなぐ岩崎(優)が、去年からの疲れが残っているなか、東京五輪代表に選ばれた。金メダルでモチベーションが上がったならいいけど、体調は心配ですね。
あと、後半戦は「7回」をどうするか。岩貞(祐太)を外さなきゃいけなかったり、藤浪(晋太郎)を使ったりしていたけど、ボクが監督ならリリーフで藤浪はよう使わんね。いきなり四球を出すようなピッチャーは、僅差のマウンドには送れない。
広澤:前半戦の終わりで差を詰められた原因は、救援防御率が4点台ということに尽きるでしょう。トップの中日は2点台です。阪神は中継ぎ陣がいいのが伝統なのに、こんなのは久しぶり。優勝した2005年もJFK(ウイリアムス、藤川球児、久保田智之)が盤石だった。
中西:JFKにつないだら8割以上の勝率だったからね。ボクはブルペン担当の投手コーチだったけど、3人のコンディションにはもの凄く気を遣った。ブルペンでいかに無駄なボールを投げさせないか。久保田は早ければ8球でマウンドに向かわせたし、球児も11球くらいでしたね。試合前半でリードされたら“今日は登板なし”と決めて1球も投げさせなかった。
──岡田(彰布)監督のもと、中西さんがJFKの生みの親とも言われますが。
中西:あれはスポーツ紙が勝手に命名しただけで、チームのなかでは“そのうち暗殺でもされたらかなわんな”と言ってたよ(笑)。ただ、3人の起用は2004年シーズンの後半には決めていた。球児も久保田も故障明けで先発で使うのは難しく、1イニング30球限定ならということでメドが立った。
まあ、最近は1回限定のリリーフがほとんどだけど、我々の時代は3イニングとか投げてましたからね。“ひとりJFK”をやらなアカンから、しんどかったよ(苦笑)。1985年に日本一になった時は、ボクと山本和行さんとのダブルストッパーだったからまだなんとかなった。
【プロフィール】
中西清起(なかにし・きよおき)/1962年生まれ。1983年ドラ1で阪神に入団。ストッパーとして1985年の日本一に貢献。岡田監督のもと一軍投手コーチとして2005年のリーグ優勝を経験。
広澤克実(ひろさわ・かつみ)/1962年生まれ。ヤクルト、巨人、を経て2000年に阪神に移籍。2003年のリーグ優勝に貢献し、2007年からは一軍打撃コーチとなったが、2008年のV逸で辞任した。
八木裕(やぎ・ひろし)/1965年生まれ。1986年ドラフト3位で阪神入団。“掛布二世”と呼ばれ、1992年の優勝争いでは主軸で活躍。“代打の神様”と呼ばれ、2003年のリーグ優勝を経験。
撮影/杉原照夫
※週刊ポスト2021年8月27日・9月3日号