『週刊ポスト』創刊当時の名物コーナーが「衝撃の告白」。銀幕のスターや渦中の人物が赤裸々に語る証言はまさに“衝撃”の連続だった。1971年10月22日号に登場したのは坂上二郎。萩本欽一と「コント55号」で大活躍した“二郎さん”の赤裸々告白を振り返る。。
「別にコンビ解消ってのじゃありませんよ。だいたいね、欽ちゃんの芝居をパッと受けられるの、ぼくしかないですよ」
歌手を目指して鹿児島から上京した坂上二郎は、26歳の1960年に浅草のフランス座に流れ着く。この地で萩本欽一と出会い、1966年にコント55号を結成。舞台を所狭しと走り回る斬新なスタイルが話題となり、1968年の『お昼のゴールデンショー』を皮切りに、テレビ界を席巻。翌年にはレギュラー週13本を抱えた。だが、2年後の取材時には2本に激減。解散を噂されていたが、二郎さんは否定した。
「ぼくは『狎(な)れ』という言葉がきらいなんですよ。仕事でも、つきあいでも『なれ』ちゃいけませんね」
1971年10月から欽ちゃんは『スター誕生!』、翌年に『オールスター家族対抗歌合戦』の司会に抜擢された。二郎さんは1974年にドラマ『夜明けの刑事』に主演し、歌手としても『学校の先生』で27万枚のヒットを飛ばす。2人とも新分野で成功を収めたが、解散はせずに1973年に『コント55号のなんでそうなるの?』、1975年に『ぴったしカン・カン』など新番組も始めた。
「人間には二通りありますよ。率先してやるタイプと、引っぱられていくうちに味がでていくタイプとね。ぼくは『引っぱられ型』なんだから……」
欽ちゃんとの関係をこう例えた二郎さんを、記者は童貞喪失話に誘導していく。忘れもしない15年前、歌手・青木光一のカバン持ち兼司会を務めていた22歳の青年は福岡・行橋市で大人になった。巡業中の夜、「一度はハってみろよ」とけしかけられ、マネージャーに連れられ、深夜3時に遊郭へ赴いたのだ。
「やり手婆さんに、『初めてだ』と告白しちゃった。ところが、婆さんは本当にしないんだな。ぼくのこの顔でしょう。三十すぎに老けてみられていましたもんね」
婆さんはシワの滲んだ乳を垂らしながら、激怒した。
「うそをいいンしゃい。いい年して童貞なんて、あンた、うそいってもだめよ」